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歌川広重作 五十三次名所図会 沼津
沼津には珍しい雪景色。スッポリと雪に包まれて、静まりかえっている様子が美しい。中央右に大木、橋のたもとに建つ民家。沼の広がりの向こうにそびえる雪の愛鷹山と富士。静けさの中を旅人のみが注意深く橋を渡っていく・・・。
すばらしい、惚れ惚れとする作品である。
描かれた場所は沼津市の東端、黄瀬川のほとり。
沼津は北に愛鷹山、南は駿河湾沿いに延びる松原で、その間は極めて水はけの悪い沼地が広がっていた。ほんの少しの雨でも水があふれかえり、水田にならなかったと言う。しかし、黄瀬川西岸は愛鷹山の裾野にあたり、なだらかな南斜面を形成して、中世より金岡荘、大岡荘として耕されていた。広重の五十三次名所図会では沼として描かれているが、この辺り実際は畑であった。沼地の多い沼津を紹介するのに、広重流に構図を意識して描くとこのようになったのであろうか。
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◆ 現在の様子 ◆
黄瀬川橋から愛鷹山と富士を望む。現在はコンクリート製のこの橋も、昭和33年頃までは板橋(「古写真で見る街道と宿場町」より)であったという。このあたりは地盤が低く、黄瀬川もかなり蛇行していたらしい。川の手前に東海道53次を偲ばせる松並木が残っており、その一角に智方神社がある。 |
<平成13年9月23日撮影>
初冠雪の直後久しぶりに、本当ーに久しぶりに富士が鮮やかに姿を現した。
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木瀬川地区は中世以来宿駅として栄えており、鎌倉時代には足柄路と箱根路の分岐点であったそうだ。この時代の木瀬川地区というのは、現在の沼津市大岡木瀬川地区だけでなく、清水町の長沢、八幡、伏見などを含む広い範囲で、立場がおかれていたらしい。立場というのは宿と宿の間にあって旅人が休める茶屋などがあり、人足や駕籠なども休んだという。
源頼朝と弟の義経が再会した時に腰掛けたとされる対面石は、現清水町の八幡神社境内にある。治承4年(1180)、平家の軍勢が富士川のほとりまで押し寄せてきたとき鎌倉にあった頼朝はこの地に出陣した(富士川の戦い)。奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興について語り合い、懐旧の涙にくれたといわれている。
対面石 |
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中世における沼津の中心部は木瀬川宿や車返宿(今の三枚橋付近)にあったそうで、江戸時代とは少し違っていたようだ。中世に黄瀬川橋は架かっておらず、慶安2年(1649)頃に沼津代官支配下に架けられたようである。東海道53次の本道が箱根を通るようになったのは、元和2年(1616)からで、中世までの東海道は木瀬川宿を北上し、足柄越えをしていたのだそうだ。 |
頼朝と義経の対面シーン(東海道名所図絵)
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