東海道五十三次
沼津宿
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浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿 |
~沼津藩領境と沼津宿境~
沼津は宿場町であると同時に城下町でもありました。 |
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三枚橋城城は高坂源五郎が武田勝頼の命を受け天正5年(1577)に築いたとされ、北条に備えた城でした。三枚橋にちなんで付いた名だそうです。三枚橋城はその東側が狩野川に接しており、川を自然の要害にするとともに韮山城を中心とする伊豆に勢力を擁する北条氏に対し、駿河湾からの水路を遮断する戦略上重要な拠点であったと考えられます。また城の北側は沼地で遮られており、平城とはいえ攻めにくい城だったようです。 関が原の合戦後、慶長6年(1601)に大久保忠佐が三枚橋城主となりましたが後継者不在のため慶長19年(1614)に一時廃城となりました。そして1777年(安永6年)になって水野出羽守忠友が10代将軍徳川家治よりこの地を拝領して、新たに沼津城を築城しているのです。 |
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時は流れて広重の時代、水野沼津藩は5万石。城下町であるとともに、宿場町でもありました。
宿場町の端には棒鼻と呼ばれる場所があります。そこには保永堂版 藤川・棒鼻ノ図や保永堂版 大磯・虎が雨のように見付が造られており、その脇に傍示杭や関札が立てられています。 ところが沼津の絵には傍示杭や関札はあっても、見付が描かれていないのです。それは描かれている場所が沼津藩領境周辺なので、宿場外れにある見付は別の所にあったからなのです。
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役者東海道 沼津・荷物平作 三代豊国画
この絵は、伊賀越道中双六・沼津ノ段で平作が十兵衛に荷物を持たせてくれと頼んでいる場面。場所は、沼津藩領東端。遠景に傍示抗と関札が立っているので分かります。 ところがここに見付が描かれておりません。
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狂歌入り東海道 沼津
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富士と愛鷹山を正面に、沼津藩領西端を描いています。関札・傍示杭(現在も沼津市西間門の八幡宮にあり、「従是東(沼津領)」と書かれています)の前を槍持ちの供を従えた武士が通り過ぎて行きます。 しかし、ここにも見付はありません。
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東側の見付は沼津藩領東境から1Km余り西の(町の中心より)、平町にあったそうです。 残念ながら現在の平町に当時を偲ばせる物は何も残っておりません。
一方、沼津宿西の出口にあたる出口町見付は、浅間神社近くにあったそうです。現在見付そのものは残っていませんが、出口町見付外の説明版があります。この場所の南側に出口町見付があったと書かれています。
沼津藩領西境は、これよりさらに西に行った西間門にあります。
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見付は宿場の入り口にあって、土塁と柵で外敵から宿場町を守る役目をしていたそうです。その脇には宿場の入り口であることを書いた傍示杭が立てられており、今夜の宿泊大名の名を書いた関札も立っていたようです。一般の客は、この関札を見て宿場の混み具合などを知ったのだそうです。 沼津の浮世絵に傍示杭と関札が描かれていて見付が描かれていないのは、その場所が宿場境界でなく領地境界だからのようです。つまり沼津藩領は沼津の宿場町よりだいぶ広かったことになります。広重はしっかり見ているんですね。 |
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