東海道五十三次
沼津宿


  ・ 黄瀬川を越えて
  ・ 黒瀬の渡し
  ・ 沼津宿から
  ・ 浮島沼へ
  ・ 原宿にて
  ・ 沼津城とその周辺
  ・ 沼津の史跡と年表
  ・ 街道の様子
  ・ 庶民の旅
  ・ 浮世絵コレクション
  ・ 小道具





東海道53次 原宿 浮世絵 歌川広重


     浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿

原宿にて
東海道が足柄越えをしていた中世の頃、愛鷹山のふもとを伸びる根方街道が東海道であったと言う。東海道の本道が箱根を通るようになったのは元和2年(1616)からで、その後原宿においても浮島沼の南側にメインルートが移ったようである。現在、千本松原沿いに伸びる旧国道一号線は、かつて駿河に進出した武田信玄が駿河湾で作った塩を運ばせた時に自然発生的に出来た塩道で、甲州街道と呼ばれていたのだそうだ。その甲州街道が一時東海道になっていた時もあったようだ。
 原宿は北側に浮島沼が広がっており、南側は駿河湾に挟まれた細長い州にあり、美しい松原と、どこからも見える富士の眺めに恵まれた気候温暖で風光明媚な土地柄である。
 元禄時代、原宿は家の数200軒足らずで、旅籠の数も20軒しかない53次中最も小さな宿場の一つであった。




歌川広重作 東海道五拾三次之内 原 (人物東海道)




歌川広重作 東海道五拾三次之内 原・朝之富士 (保永堂版)

原宿を朝早く出て、目の当たりにした大きくて華麗な富士を描いている。この辺りでは街道のどこからでも美しい富士が見え、広重も雰囲気を出すためか山頂を枠外にはみ出した富士を描いている。感動が伝わってくる構図である。街道を行くのは物見遊山の親子であろうか、湿地で鳴く鶴の声に思わず振り返って見る艶っぽい仕草が印象的である。両天秤にして荷物を担いでいるのは供の者であろうか。ただ沼地が広がるだけで原宿辺りを印象強く描いた広重傑作の1枚である。
この時代、原にはこれといった産業に乏しく、浮島沼は水田にも不向きで、貧しい村であった。そのため放水路の掘削に苦労し、新田開発に努力した。


◆ 現在の様子 ◆



 広重が描いた場所から少し北側になろうか、国道一号線沿いの沼津市浄化センター辺りにはまだ沼地が残っている。現在は、減反政策のためなのか新田開発が行われていないのであろうか。湿地と田圃とが混在しており、産業廃棄物の処理場になっている所もある。
 驚いたことに、写真を撮っていたら目の前を鶴と見間違えそうに大きなアオサギが一羽低空で飛んでいった。この辺りでは、湿原で見られるヨシゴイ、バン、オオヨシキリ、カルガモ等が今も生息しているそうだ。
 東海道を神明塚古墳から暫く歩き、踏み切りを超えたところに清梵寺がある。臨済宗妙心寺派の寺で、本尊は十一面観音・地蔵尊。 昔から原のお地蔵さんと親しまれている。

清梵寺のすぐ隣に、やはり臨済宗妙心寺派の長興寺がある。本道の脇に来客が打ち鳴らす板が吊るしてあった。



松蔭寺(東海道名所図絵)

禅宗らしく、落ち着いた雰囲気の寺である。京都大徳寺にある国宝「密庵席」を写した茶室があると言う。

 長興寺を過ぎると、松陰寺がある。白隠禅師(1685−1768)で有名な寺だ。臨済宗白隠派の本山。鎌倉時代、円覚寺の末寺として建てられたが、その後寂れていたところ江戸初期寛永年代に大瑞和尚が再興して妙心寺派に属していた。享保年間になり、白隠が入山して今日にいたっている。山門の屋根は108枚の石瓦で葦かれているそうで、煩悩をこの山門で止めるため白隠が作らせたものだそうだ。
 白隠禅師は「駿河には過ぎたるものが2つあり、富士のお山に原の白隠」と歌われた名僧で、妙心寺時代には一席を勤め、妙心寺派中興の祖と讃えられていた。諸国の大名の中には白隠禅師とひと時を過ごそうと、参勤交代の途中に立ち寄ることも少なくなかったと言う。備前岡山藩主池田継政が参勤交代の時に立ち寄った折、食事の支度をしていた小僧がすり鉢を割ってしまった。それを知った継政が、後日すり鉢をいくつか贈ったところ、その一つを白隠弾師が折れた松の傷口にかぶせたと言う。松は、そのまま大きくなり、現在もその松の枝に鉢が
乗っているらしい。山門の東側には、樹齢400年になると言うすり鉢松がずらりとそびえて立っている。


松陰寺・山門





すり鉢松




松陰寺を過ぎると白隠生誕地の碑が道路沿いに立っている。そこから少し奥まったところには白隠産湯井戸がある。


すぐ先の信号を左折すると、植松家がある。地元が有力な商人で地主の植松家には街道きっての名園といわれた帯笑園という庭園があり、多くの大名や公家たちが立ち寄ったと言う。
東海道を植松家と反対に右折・北進すると、興国寺城跡がある根方街道、根古屋だ。
信号をそのまま直進すると旧東海道。交番のすぐ横、浅間神社の前に原宿のサインが立っている。
この辺りがかつての原宿の中心で、街道の左側には本陣・渡辺家があった。



現在建物は見られないが、大名家の名が書かれている宿帳や関札が残っている。
街道をさらに進むと第二昭和放水路がある。
この放水路が昭和30年に完成したのをもって浮島沼の治水事業が終了したと言う。


放水路を過ぎて左折すると、車が多く通る千本松原沿いの旧国道一号線(旧甲州街道)である。その街道沿いの松林の中に要石神社がある。

漁業の様子と要石神社
(東海道名所図絵)
旧国道一号線を沼津方向に戻ると、その一生を新田開発と放水路の掘削に尽力したという増田平四郎の墓がある。
平四郎は三島生まれ。原に移住して慶応元年(1865)に浮島沼から放水路を開こうとしたが、失敗。
その後大勢の人が努力したがうまく行かず、昭和になってようやく放水路が完成する。 
 昭和18年(1943)に完成した昭和放水路は、増田平四郎が計画したところとほぼ同じ場所に完成しているのだそうだ。
 
     


    竹取翁〜かぐや姫〜(東海道名所図絵)
日本最古の小説は竹取物語です。実は竹取物語のかぐや姫のお話は、沼津市原周辺のお話のようです。広重もかぐや姫をはりま図絵で原のものとして描いています。


★ お願い ★
  この東海道沼津宿は不備な点が多々あるかと思います。
 お気付きの点がございましたら、ご指導頂きますようお願いいたします。   

                                                                

浮島沼から   沼津城とその周辺