戦国時代道路はほとんど整備されておらず、それぞれが独立した国のようであって、僅かに商人が行き来する程度で往来はあまり活発でなかったそうだ。諸国が統一されるに従い、特に信長や秀吉は商業の発展に努めたので人々の交通は次第に増えたそうだがそれも局地的なものであったようだ。
天下統一後、家康は街道の整備に努め東海道、中仙道、奥州街道、甲州街道、日光街道の5街道を中心に人々の行き来が増加した。幕府は5街道を直轄して宿駅制度を設け管理した。東海道は江戸から京都まで、ほぼ2里毎に宿駅が設置された。地元の名主たちには輸送用の馬と人足の用意が命ぜられ、街道の整備も負担されたが、それと引き換えに旅籠を運営することを許され、武士優先ではあったが空いている時には庶民も泊まれるようになった。
街道が整備されてからも、江戸時代前半には参勤交代の行列や藩に戻る武士、行商人が行き交うだけの仕事の旅ばかりで、物見遊山の旅が広まったのは江戸時代後期の文化文政になってからだったようだ。
宿場は問屋場が中心で、その向かいや回りに本陣、脇本陣があり、庶民が泊まれる旅籠はその周囲にあったようだ。常連の商人などが泊まる旅籠には、入り口近くに荷物を置く板の間が広くとってあり、比較的安く泊まれたが宿場の中心からは離れていたらしい。さらに木賃宿や茶屋は宿場はずれに位置していたようだ。
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