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東海道五十三次
沼津宿


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興国寺城 三枚橋城 沼津城 沼津藩 沼津領



 
浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿 


沼津城とその周辺

 

 室町時代以後、今川氏は駿河守護職として駿東郡も支配していた。北条早雲は室町幕府八代将軍義政の弟義視に仕えていたが、駿河守護の今川義忠の要請で駿府に身を寄せ、義忠が急死した折、跡目相続争いを調停した功績で東駿河(現在の富士市から黄瀬川辺りまで)に領地を得て長享2年(1488)に興国寺城を築城している。興国寺城は北条早雲旗揚げの城として有名。この時早雲はすでに57歳だったとの事。人生50年の頃ですから、ずいぶん遅咲きだったんですねー早雲は。

興国寺城は愛鷹山の尾根の先端部にあり、その両側は湿地で、尾根は深い空堀で切り離されていた。沼津市根古屋に位置し、根方道と東海道を結ぶ浜方道の分岐点にあり、甲斐、駿河、足柄、伊豆を結ぶ交通の要所に位置していた。城址には初代城主である北条早雲と最後の城主である天野康景の石碑がある。



興国寺城絵図
 

 早雲はその後伊豆を攻め、韮山城に移っている。興国寺城の天守台に登ってみると駿河湾から伊豆がよく見える。ここから毎日周辺を眺めていた早雲が、戦国時代の幕開けとなったとされる、堀越御所足利茶々丸を内紛に乗じて攻めた気持ちが理解できるような眺望である。
その後早雲は、さらに相模を攻略して小田原北条氏の基礎を築いたのはあまりにも有名。


 興国寺城のほうは、三代目北条氏康のときに今川義元との抗争で今川氏の支配下に置かれ、義元は城を普請、拡張している。その後河東の地は今川義元、武田信玄、北条氏康の三つ巴状態となり、小競り合いが続いた結果、三氏の間に三国同盟(1554)が結ばれた。この時、千貫樋が造られている。

 しかし、今川義元が永禄三年(1560)、桶狭間で織田信長に敗れると、今川、武田、北条の三国同盟は破れ、武田信玄は駿河侵攻を開始し、北条氏政も河東(駿河の国 東部を指す)に進出して駿東は再び戦火の舞台となる。永禄十二年(1569)に今川氏が滅亡すると、興国寺城には一時的に北条が入城するも、元亀二年(1571)に北条氏政と武田信玄は同盟を結び、河東の地は武田に引き渡されることになった。武田はさらに天正5年(1577)に三枚橋城を築いている。

 三枚橋城は高坂源五郎が天正5年(1577)に築いたとされ、武田勝頼が北条、徳川に備えた城であった。三枚橋にちなんで付いた名だという。三枚橋城はその東側が狩野川に接しており、川を自然の要害にするとともに、韮山城を中心とする伊豆に勢力を擁する北条氏に対し、駿河湾からの水路を遮断する戦略上重要な拠点であったと考えられる




三枚橋城図面

 沼津に最初に建てられた三枚橋城を示す。
東西南北それぞれ380mの小規模な平城で、天守閣はなかったが、本丸、二の丸、三の丸に別れていて、東方は狩野川を自然の要害とした、堅固なものであったと言う。




三枚橋城外堀の石垣






 平成6−7年、東急ホテル建設中に発掘された三枚橋城外堀の石垣は、まさに狩野川に接しようとしており、現在の川廓通はなかったそうだ。そのため、慶長6年(1601)以後整備された旧東海道は三枚橋城を北へ迂回していたらしい。


 武田と北条は狩野川、黄瀬川を境に領国化し、幾多の戦火を交えた。この時、武田は興国寺城、三枚橋城を拠点とし、江尻城、袋城に水軍を持ち、一方北条は中山城、戸倉城から沼津アルプス沿いに多数の砦を築き、長浜城、重須水軍を前線基地として戦った。

 長浜城は室町時代からこの地の豪士大川氏の居城で、北条に仕えていた。北条は武田に三枚橋城を作られたため、水路を絶たれ、天正7年(1579)急ぎ長浜城を普請して水軍を配置した。長浜城は水軍の城として全国でもめずらしく、国の指定史跡になっている。武田、北条両氏の対立は、陸上だけでなく駿河湾の覇権を巡って争われ、両水軍はにらみ合ったが、天正八年(1580)に大規模な海戦が起こっている(駿河湾海戦)。この時、狩野川河口からも武田方の船が出陣しており、三枚橋城が水軍の基地としての性格を有していた事を示している。北条は大船安宅を擁して戦ったが、駿河湾海戦の勝敗は明らかでなく(引き分けだったらしい)、その後も海戦は続いている。

信玄亡き後、武田勝頼は西からは徳川・織田連合軍に攻められ、東からは北条に攻められていた。
 天正十年(1582)二月二十八日、北条勢の攻撃により、三枚橋城はついに落城し、翌三月に武田勝頼は滅亡している。
北条は三枚橋城を落としたが、その直後徳川に追われ、家康は松平康親を三枚橋城主としている。
 天正18年(1590)豊臣秀吉による関東攻めにより、北条滅亡後には、豊臣の臣中村一氏が駿河に、その弟一栄が沼津の城主になっている。

 さらに関が原の合戦後、慶長6年(1601)に大久保忠佐が三枚橋城主となったが、後継者不在のため、こちらも慶長19年(1614)に一時廃城となっている。この時、忠佐の兄忠世は小田原城主、弟彦左衛門は天下のご意見番として有名。「自分の武功で得た碌でなければもらえない。」と城主になるのを断ったという。大久保忠佐が死亡して廃城となると、新たに城の南東部に街道が通り、近世の沼津宿が作られたと言う。






 沼津宿絵図



この絵図は元禄元年(1688)に描かれている。慶長19年(1614)に三枚橋城が廃城となった後、狩野川沿いに上土町が出来て近世沼津宿三町(本町、三枚橋町、上土町)となった頃の様子が良くわかる。


 三枚橋城廃城の後、沼津は徳川頼宣領となるが、元和5年(1619)には天領となっている。
寛永元年(1624)徳川忠長(駿河大納言)が駿府城主として駿河国を支配、沼津もその領地となったが、寛永9年(1632)に徳川忠長は改易となっている。

 その後、沼津は幕府の直轄地となり代官が置かれていたが、1777年(安永6年)水野出羽守忠友は10代将軍徳川家治よりこの地を拝領し、新たに沼津城を築城している。広重の時代、沼津は五万石であった。

 安永六年(1777)当時の沼津藩領(沼津市史だより8号)を見ると、南は沼津市口野から北は裾野市富沢まで、南北に長い広がりを見せている。飛び地などがほとんどなく、水野出羽守忠友がこのようにまとまった領地を拝領できたのは、旗本から大名に昇格してきた本人の実力もさることながら、田沼意次の縁戚にあったことも関係しているようだ。




 安永六年当時の沼津藩領


沼津藩主水野出羽守忠友は、徳川家康の生母伝通院の血統で、信州松本藩7万石の大名の家系。松本藩主忠恒は、江戸城松の廊下で毛利師就に刃傷に及び改易となる。忠恒の叔父、水野忠穀に家名存続が許され、7千石の旗本となる。初代沼津藩主 水野忠友は、信州佐久の旗本、水野忠穀の嫡子。忠友は
,竹千代(後の10代将軍家治)の御小姓となり、老中、田沼意次のあと押しもあり、出世して明和五年(1768)には若年寄・三河の国大浜藩の大名となった。この時、大浜に陣屋を設けたが、城はなかった。

安永6年(1777)には10代将軍家治に取り立てられて御側用人となり、沼津藩城主として築城を命じられる。この時加増されて2万石となっている。水野出羽守忠友は、田沼意次が失脚の後、老中にまでなっている。

 

沼津城模型

 
 水野出羽守が再築した沼津城は本丸、二の丸、三の丸、外曲輪などからなり、三枚橋城よりだいぶ小さくなったらしい。平城とは言え北は沼地、東は狩野川を天然の要塞とし、西側は武家屋敷、南側はかぎの手になった宿場町と、その周辺には多数の寺院を配している。



 嘉永三年 沼津城絵図
(市原氏 長谷川正文氏所蔵)
 
 嘉永三年(1850)の沼津城の絵図で、沼津城の改修の際に幕府に提出した図面の写しである。城には本丸、二の丸、三の丸があり、城主の居住は二の丸にあったらしい。全体を堀が囲んでおり、城の南側には旧東海道が通っている。絵図の右下には、改修工事の内容が細かく書かれている。


  
  ● 城主とその年代 ●
天正 5年(1577) 武田の武将高坂源五郎  三枚橋城を築く
天正10年(1582) 武田氏滅亡 家康配下の松平康親
天正11年(1583) 康親没後その子 松平康重
天正18年(1590) 秀吉により徳川氏 関東へ移封 中村一栄三枚橋城主となる
慶長 6年(1601) 家康の天下平定後 大久保忠佐 三枚橋城主となる
慶長19年(1614) 忠佐没後 廃城 その後 徳川頼宣領
元和5年(1619) 天領
寛永元年(1624) 徳川忠長(駿河大納言)が駿府城主として駿河国を支配
寛永9年(1632) 徳川忠長 改易
幕府の直轄地として沼津代官を設置 陣屋を設ける
安永6年(1777) 水野出羽守忠友 沼津城を築く 
水野氏が8代にわたり城主を務める
享和2年(1802) 二代 水野忠成   老中主座 五万石に加増
天保5年(1834) 三代   忠義
天保13年(1842) 四代   忠武
天保15年(1844) 五代   忠良   城改修工事
安政5年(1858) 六代   忠寛   側用人
文久年(1862) 七代   忠誠   老中
慶応2年(1866) 八代   忠敬   甲府城代
慶応3年(1867) 大政奉還  
明治維新(1868) 水野氏は上総の国菊間(現在の市原市)に移封
沼津は徳川・静岡藩領となる




沼津兵学校址の碑
 慶応4年(明治元年)(1868)5月、明治維新により徳川家は70万石の一大名となり静岡へ移された(静岡藩)。このとき静岡藩の領地となったのは、駿河国、遠江国で、浜松藩、掛川藩、田中藩沼津藩が含まれていた。これらの藩は房総に移され、沼津藩は上総国の菊間(現在の市原市)に移された。沼津には、江戸から多くの旧幕臣たちが移住してきており、静岡藩は明治2年(1869)に陸軍士官を養成するため城址の一角に沼津兵学校と付属小学校を設立している。









   



沼津城と兵学校の図



明治三年に作られた沼津略図には二の丸に兵学校が描かれており、城の西側には旧幕臣たちの配置が書かれている。

兵学校は西 周を校長に、教授陣には当時の日本を代表する学者や軍人たちが選ばれたと言う。これが、欧米を模範とした我が国新教育の始まりとなったのだそうだ。

明治4年の廃藩置県により、沼津兵学校は明治政府の管理下となり、翌5年には東京の陸軍兵学寮に合併・消滅している。わずかの期間であったが多くのエリートが集り、兵学校出身者はその後、各分野で活躍し、日本の近代化に貢献したと言う。

現在、沼津兵学校址の碑が大手町の城岡神社にあり、門柱が沼津明治記念館に残されている。石垣や堀は壊され、城址は民間に払下げられた。火災や戦争の被害にもあい、復興のため区画整理されて、現在では城の面影を残す物は見られない。明治時代の沼津町略図を見ると、沼津駅前から南、市の中心部一帯がもとの城内に発展した町であることがわかる。



明治24年当時の沼津町略図


わずかに,東急ホテル建設中に発掘された三枚橋城の石垣が狩野川岸壁に利用され、沼津城の井戸跡が、ほさか菓子店裏の駐車場に残っている。

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 原宿にて  沼津周辺の史跡と年表