東海道53次
沼津宿

  三島宿から


黄瀬川を越えて
傍示杭(石)  
牧堰用水


黒瀬の渡し
伊賀越え道中双六・沼津の段


沼津宿から
沼津宿境と沼津藩領境


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東海道の浮世絵
沼津の浮世絵
保永堂版の後版  
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絵草子ほか
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東海道53次 沼津宿 牧堰用水


 沼津の古道
浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿   
   深良用水 
 
 <牧堰用水>

東海道を少し行ったところに新田川がある。とても小さな川で見逃してしまいそうだが、実はこれは用水路である。当時、大岡の荘には水がなく、平坦な畑であった。貧しい農民はなんとか米のとれる豊かな村にしたいと、慶長7年(1602)に小林村、上石田・中石田・下石田村、木瀬川村、日吉村、沼津村が協力して黄瀬川の鮎壷上流に牧堰をつくり、そこから水路を掘削したと言う(牧堰用水)。
沼津市明治史料館発行の「牧堰・門池用水」によると、築堰を命じたのは関ヶ原の合戦の後に三枚橋城主になった大久保忠佐(兄は小田原城主:大久保忠世、弟は天下のご意見番:大久保彦左衛門)であったそうだ。

下石田村を流れる部分は新田川と呼ばれ、東海道往還を横断するところには石橋を架け、新田橋と名付けられた。その後、浪人川など用水路は網目状に広がり、大岡の荘だけでなく沼津村、東間門村まで潤すようになると灌漑用水が不足し、正保2年(1645)牧堰の改良工事と門池を拡張して溜池とし、そこから水路を設置している(門池・牧堰用水)。大岡の荘一帯では飛躍的に米の収穫が増え、流域の人々に大きな恵みをもたらせた重要な水路であったと言う。現在も、毎年春が来ると、この水路を利用して稲作が行われている。



新田川
     
   新田川を上流まで追ってみると、盛んに枝分かれした堀が縦横に張りめぐらされており、その源は門池と牧堰であることがわかる。門池からは灌漑用水路以外に、その後に作られた放水路があり、これを牧堰からの用水路が樋で越えている。   
     
     
     
     
水路に沿って、さらに上流に行くと牧堰が見える。この写真の手前に水門があり、水は用水路へと流れている。




牧堰

牧堰と鮎壷の滝の間に牧堰橋が架かっている。橋を渡って右折すると,新井堰(本宿用水の堰)がある。鮎壷の滝の直上から取水して黄瀬川東側を灌漑したという本宿用水は素掘りの遂道で、慶長8年(1603)に掘削されている。
この時代には、新田開発が盛んに行われていた事が分かる。
とりわけ寛文6年(1666)に大庭源之丞が箱根芦ノ湖の水を裾野市に引いた深良用水は有名。

 
 
         

  大岡歴史マップ

東海道に戻ると歩道に沼津市大岡歴史マップが立っており、江戸時代の下石田村の様子が紹介されている。