東海道53次
沼津宿

  三島宿から


黄瀬川を越えて
傍示杭(石)  
牧堰用水
  ・

黒瀬の渡し
伊賀越え道中双六・沼津の段


沼津宿から
沼津宿境と沼津藩領境


浮島沼へ
浮島沼の成り立ち
原宿にて
沼津城とその周辺
沼津の史跡と年表

東海道の様子
伊豆半島の成り立ち
庶民の旅



東海道の浮世絵
沼津の浮世絵
保永堂版の後版  
広重・東海道の雪景色
絵草子ほか
小道具
関連リンク 
 ・  アゲハ蝶の幼虫発見


~ since 2008.4.16 ~








メールはこちら




 東海道53次 沼津宿  傍示杭(石)

   浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿     

◆ 傍示石 ◆


潮音寺のすぐ先の駐車場に、従是西沼津領と書かれた傍示石が建っている。
ここは現在、沼津市大岡字下石田と字木瀬川の境界だが、江戸時代には水野出羽守忠友が城主であった頃の沼津領東端を示している。水野出羽守は安永6年(1777)に沼津藩主になっている。この時代、伊豆は天領で、韮山に代官屋敷跡である江川邸が残っている。この江川代官が治める天領と沼津領の境界だったそうだ(水野出羽守忠友は、10代将軍徳川家治の命により、代官江川太郎左衛門英征支配の天領の一部を引き継いでいる)。広重の浮世絵にもあるように、この傍示石も初めは木製の傍示杭だったそうで、幕末になって作り変えられたという。江戸時代の古地図にも石柱として描かれている。
傍示石は3面に同じ文字が刻まれており、沼津領に入ってくる人が見えるように建っていたそうだ。つまり、文字のない面を西側の領内に向けていたのだ。元文5年(1740)の「村明細帳」では、当院所在の久保には29軒の農家があったという。当院はまさに沼津領の端っこだったのである。
沼津市西間門にも、従是東(沼津領)と書かれた傍示石がある。2つの傍示石の間が当時の沼津領という事だが、5万石といってもずいぶん狭かったようである(水野出羽守忠友がこの時拝領したのは2万石で、沼津地区は1万4千石分程度)。

ところで、黒瀬橋のたもとにある平作地蔵と関係のある、日本三大敵討の一つ伊賀越道中双六・沼津ノ段で平作と十兵衛が最初に出会ったのは棒鼻(傍示石・従是西沼津領)の前なのだそうだ。