東海道五十三次
沼津宿


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東海道53次 沼津宿 浮世絵 歌川広重 



 
浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿

~沼津宿から~

  慶長五年(1600)関が原の戦いで勝利した家康は、翌年、東海道をはじめとする五街道の整備を始めた。沼津宿が近世東海道の宿となったのは、他の多くの宿と同じように慶長六年(1601)と考えられている。当時、沼津には三枚橋城があり、狩野川と接していた為、東海道は三枚橋城を北側に迂回していたそうだ。その頃の沼津宿は、三枚橋町と本町の二町に分かれていた。慶長19年(1614)三枚橋城主],大久保忠佐が死去すると、後継者不在のため同城は破却された。その後、狩野川沿を通る現在の川廓通りが出来て東海道になったようだ。その頃の沼津宿は(城跡に新たに上土町が出来て)三枚橋町、上土町、本町の三町から成っていた。
元禄時代、沼津宿には510軒の家があり、本陣が2軒、脇本陣が4軒、旅籠が78軒、茶屋が13軒あった。
 



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双筆五拾三次 沼津(歌川広重 豊国三代合作)

 

   千本松原から北方を望む。雄大な富士と愛鷹山が描かれている。松原の間に沼津城と、その左に宿場の家並みが見え、松原の向こうには浮島沼が広がっている。武田の武将高坂源五郎が天正5年(1577)に三枚橋城を築いたとされ、武田勝頼が北条、徳川に備えた城であった。三枚橋にちなんで付いた名だという。
どこまでも広がる松原は、鎌倉以前より存在していたらしい。武田勝頼は北条氏との戦いに際し、伏兵を恐れて伐採してしまい、その後乗運寺の増誉上人が潮害を防ぐために植えたという。
関が原の合戦後、1601年(慶長6年)に大久保忠佐が城主となったが、後継者不在のため一時廃城となっている。その後、沼津は幕府の直轄地となり代官が置かれていた.
1777年(安永6年)水野出羽守忠友は10代将軍徳川家治よりこの地を拝領し、新たに沼津城を築城した。広重の時代、沼津藩は五万石であった。
 
 

 


     
   
             ◆ 現在の様子 ◆


沼津城の本丸跡は現在、中央公園になっている。火災や戦争にもあい、復興のため区画整理された沼津城は跡形もない。ただ、沼津城本丸跡の石碑だけが建っている。

 



 中央公園


沼津城本丸跡


 広重の時代、旧東海道は三枚橋を過ぎると左手の細い道に入る。川廓通といって旧東海道であるが、急にさみしく、暗くなる。通りの左手、狩野川の堤防沿いに水神社がささやかに建っている。

  

 この辺り、かつては三枚橋城の中で、水神社は曲輪の守護神であり、狩野川洪水の守り神であったそうだ。少し先には旧川廓町の石標が立っており、沼津城と狩野川に挟まれた狭い土地に由来して町名が付けられたとの説明がある。

江戸時代、通りの左側には狩野川に接した港があったという。伊豆からの荷が盛んに上げられ,江戸や江尻(今の清水)にも船が出ていたそうだ。港は永代橋のたもとまで広がっていたそうで、魚町や対岸の市場町の名が残っている。沼津は港町の性格も有しており、この時代から商業の中心地だったのだ。川廓通りの右側が沼津城だった所で、本丸跡が現在中央公園になっている。





旧川廓町の石標

 道なりに進むと上土通りに出る。明るくにぎやかになった通りを左折すると旧東海道・上土町だ。近代的な町並みで、ここに最近東急ホテルが出来た。建築現場から三枚橋城の石垣が発見され、その一部がホテル玄関前に保存されている。ちょうど外堀があったところに説明版が設置されており、発掘された石垣の写真がはってある。その下には現在も外堀跡が埋もれているそうだ。



ホテル玄関前石垣


説明版


稲荷・天神社 
 ホテル裏には、城の安泰を願って城内に建てられていたという上土朝日稲荷神社が再建されている。
 御祭神は宇迦之御魂神で、天正五年(1577)武田勝頼が三枚橋城を築城の折、城地守護のため稲荷・天神社を城内に祭った。廃城後にも残り、水野出羽守が沼津城を新たに築城したときに水野家守護の稲荷社を勧請したため稲荷・天神社を上土裏通り旧城址の古堀跡に移した。
 その後幾度か遷座されて、現在の地に鎮座されているとの事。

 


沼津宿絵図 沼津市史 絵図集 No.21
       
  元禄元年(1688)に作成された沼津宿の絵図です。古城(三枚橋城)を中心に、三枚橋町、川廓通、上土町、通横町、本町 が描かれている。    
       
       
 

ホテルの先の交差点を左折すると御成橋だが、明治になって橋が架けられるまでそこには市場の渡しがあったという。この交差点を右折すると通横町である。この右側に問屋場があったのだそうだ。東海道は通横町をすぐまた左折すると、かつての中心街だ。曲がり角に沼津宿の案内板が立っている。
宿場ではあっても、この屈曲する道路は城下町特有の形態だ。
案内板を曲がった所は本町、この辺りはかつての宿場町の中心で、元禄時代には通りの左右に本陣が2軒、脇本陣が4軒あったという。

 ・清水助左衛門本陣 
 ・間宮喜右衛門本陣 
 ・彦左衛門脇本陣  
 ・市左衛門脇本陣 

  ・九左衛門脇本陣 
 ・重左衛門脇本陣 
 などだそうだが、この辺りはかつての沼津宿であったことを示す案内板が本町の角に建っているほか、名残は全く見られません。

先日、清水本陣で検索したら「わくらばに沼津・後編」がヒットしました。嬉しかったです。すぐに行ってみましたら真新しい石碑が立っていたのです。「高田本陣跡」、「中村脇本陣跡」、「清水本陣跡」、教育委員会が立てた石碑です。これこそは沼津が宿場町であった印です。
次は問屋場跡の石碑を建てて欲しいです。沼津は城下町でも宿場町でもあったのですが、そのことを知らない市民が実に多いのが残念なのです。

 
沼津宿の案内板


沼津宿の様子(東海道名所図絵)
 
         
 
元禄元年(1688)に描かれた沼津宿絵図によると通横町には問屋があった。本町通りの東側に清水助左衛門本陣(東本陣)が、本町通りの西側に間宮喜右衛門本陣(西本陣)が建っていた。東本陣と言われた清水家は後北条氏に仕えた武将を先祖に持っており、近世初頭から幕末に至るまで沼津宿の本陣を営み、名主や年寄などを務めた家であった。


沼津宿本陣清水家の間取図
   文久三年(1863)将軍家茂上洛に際し差し出した文書によると、清水家本陣は間口18間半、奥行23間で、434坪あり、そのうち建坪は331坪であったそうだ。書院作りで、門、玄関を備えていた。

 永代橋を左手に見ながら下本町の角を右折すると左右に神社、仏閣が並んでいる。
これも防衛線なのであろうか。すぐ右側に浅間神社、真楽寺、大聖寺、永明寺が、左側には、東方寺、乗運寺、西光寺、長谷寺、妙海寺、妙覚寺が、少し離れた街道沿いには慈光院、妙伝寺が建っている。

 浅間神社は坂上田村麻呂が東征凱旋のおり、狩野川の右岸に奉斎したが、その後現在の地に遷座された。木花開耶姫命を御祭神として、縁結び、安産の神として古くから厚く信仰されている。参勤交代の折には、多くの大名が参拝しており、武運長久、道中安全を祈願したと言う。
 
     
  
 ◆ 乗運寺 ◆

千本松原を作った増誉上人が開いた寺で、増誉上人や若山牧水の墓がある。
増誉上人は山城の国(京都)に生まれ、知恩院に学び、諸国を行脚して沼津に来たそうだ。農民の惨状を見かね、潮害を避けるため松を植樹してこの地に留まったとの事。


  準備中
 写真 乗運寺(増誉上人、若山牧水の墓)


  

 街道からずれるが、乗運寺前を南に下ると千本浜に出る。ちょうど千本松原に差し掛かったところ、小高い丘の上に長谷寺がある。駿河一国三十一番霊場、駿豆両国十三番霊場となっている。
「浜の観音さん」として市民に親しまれており、航海安全祈願の大曼陀羅が有名。天長  年(825)弘法大師が祈願道場として、創建したのだそうだ。本尊は十一面観世音菩薩で頭に慈悲、慈愛、怒りの相を示す十一の顔を待ち、人間の煩悩を救ってくれる。寺宝に弘法大師像、聖徳太子像薬師如来像がある。





長谷寺


 千本松原は沼津市千本浜公園から、富士市の田子の浦まで続いており、15kmを越える美しい黒松の林だ。増誉上人がお経を唱えながら一本一本植えたという、東海道随一の景勝地として有名。公園の入り口近くに増誉上人の像が立っている。



千本遠景














増誉上人像


久しぶりの晴天の日、千本浜の堤防に立つ。見渡す限り、どこまでも続く松並木が見える。すごい!!  
先日、車でこの松並木の距離を測ったが、今日はなんと15km全部が見渡せるのだ。 絶景だ! やっぱり千本松原は沼津の誇りだ。あらためて、自然の素晴らしさと増誉上人の偉大さに敬服する

 松原の中には牧水の碑があり、近くには牧水記念館も建っている。
 若山牧水は近代の代表的歌人で多数の短歌を残している。
大正9年に千本浜の近くに移住し、昭和3年に43歳で永眠している。酒と旅をこよなく愛し、沼津千本の地を愛してやまなかった牧水を偲んで、昭和62年にオープンしたのだそうだ。千本浜の歌碑には「幾山河こえさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく」と書かれている。牧水の歌碑としては、全国で最初に建てられたものだそうだ。 




若山牧水の碑




 牧水記念館


 牧水の碑のすぐそばには、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の記念碑と歌碑がある。
 昭憲皇太后は沼津御用邸に毎年おいでになられたそうで、特に大正2年には7ヶ月間も沼津に滞在されたという。皇后は沼津をこよなく愛され、お忍びで、しばしば市内にも出かけられ、千本浜に行啓されたのを記念して御座所跡が設けられたそうだ。歌碑には、「くれぬまに沼津のさとにつきにけりしばしみてこむ海のけしきを」と書かれている。
沼津を愛した皇后のお気持ちが偲ばれる。




    

昭憲皇太后の記念碑と歌碑





井上靖の文学碑

少し離れた所に、青春時代を沼津で過ごした井上靖の文学碑がある。芥川賞作家の功績を称えて建てられたもので、碑には「千個の海のかけらが千本の松の間に挟まっていた少年の日 私は毎日それを一つずつ食べて育った」と書かれており、足元には彼の作品名がズラリと刻まれている。
とても落ち着いた雰囲気のする一角である。

長泉町にもビュッフェ美術館の脇に井上靖文学館があり、在りし日の井上靖の写真やパネル、生原稿や創作ノートなどが多数展示されている。高校時代によく読んだ井上靖は、沼津縁の小説家だったのだ。なんだか、とても満ち足りた、うれしい気分になってくる。


 松林の中を走っている細い舗装道路を越えたところに首塚がある。
戦国時代、武田勝頼と北条氏政との間で激しい戦いが行われ、特に天正八年(1580)の千本浜の合戦は激戦であった。その時の戦死者が葬られているのだそうだ。明治33年、嵐のときに松が倒れ、その根元から多数の人骨が出たのだそうで、その人骨が武田、北条の戦いの戦死者だったと言う。十代の若者が多く、皆深い刀傷を負っていたそうだ。

 

首塚 




      六代松の碑  
松原の中をさらに西へ進むと、六代松の碑がある。六代とは、平氏の第六代という意味で、平正盛から数えて平清盛が三代、平重盛、平維盛、平六代と続く。
平氏の嫡流であったが平氏滅亡の後、北条時政の捜索によって捕らえられた。鎌倉へ護送の途中、千本松原で処刑されようとした時に、文覚上人の助命嘆願によって処刑を免れその身柄は文覚に預けられた。
その後、六代は出家して妙覚と称していたが頼朝の死後処刑された。首は六代ゆかりの地である千本松原に葬られたとされる。

 


海辺の道を 沼津港に向かって進むと牧水記念館の前に沼津倶楽部がある。
広い庭園と数寄屋造りの施設では、懐石料理を楽しむことができる。趣のある一帯をさらに進むと港口公園に出る。ここには「赤い靴」「十五夜お月さん」「七つの子」などで有名な本居長世の碑や、沼津生まれの詩人勝田香月の「出船」の歌碑がある。

ずいぶん歩いたのでお腹が空いてきた。

沼津港魚河岸食堂街によって腹ごしらえ。これは是非お勧め、おいしいお店がいっぱいです。満腹になったところで、我入道の渡から船に乗って対岸へ。牛臥山のふところに芹沢文学館と日緬寺がある。


さらに進むと沼津御用邸記念公園に出る。沼津は北に富士山を仰ぎ、千本浜や駿河湾の美しい海岸線など、風光に恵まれ、気候も温暖で、観光地や保養地として注目を集め、明治26年には沼津御用邸が建造された。明治・大正・昭和の3代にわたって使用されていた沼津御用邸は、昭和20年の空襲によって本邸が消失し、東西両付属邸を残すのみとなった。
現在は、改装工事も行われ記念公園として平成11年から一般公開されている。



  沼津港魚河岸食堂街  


 西付属邸車寄せ



沼津市歴史民族資料館

 
沼津御用邸記念公園の中に沼津市歴史民俗資料館がある。沼津の漁業や農業、歴史・民俗について調査・研究が行われており、特に駿河湾の漁業について豊富な資料が展示されている。現在は、「歩いてみよう東海道」の企画展が行われており、沼津宿、原宿の史跡が紹介されている。


 そろそろ旧東海道に戻ろう。浅間神社近くに出口町見付があったそうだ。沼津宿の西の出口にあたり、ここが沼津宿の中心のはずれになる。少し行ったところに、出口町見付外の説明版がある。この場所の南側に出口町見付があったと書かれている。東側の見付は平町にあったそうだ。
見付とは宿場の外れにあり、土塁や木製の柵があって、外敵の侵入を防ぐ(?)目的で作られたそうだ。

出口町見付外の説明板



  説明版のすぐ先で、緑地帯を通過する。かつて国鉄沼津港線が引かれていた所だ。
緩やかにカーブしていて、一目で線路址であることが分かる。東海道線がまだ開通していない時に、沼津港から資財を運搬して東海道線の建設にあたったとの事だ。由緒ある線路址が市民の憩いの場になっており、1988年に静岡県まちなみ
50選に指定されている。地方都市の沼津でも、このような緑地帯を見るとほっとする。道路わきに立っている案内板によると、線路の終点近くに蛇の形をした松が生えていたことより元は蛇松線と呼ばれていたとのこと。その後、90年間ほど物資や海産物の輸送に活躍したとのことだ。この緑地帯が狩野川と接する所は小さな公園になっており、当時使われていた物であろうか小さなSLが置いてある。その付近には蛇松町の地名が残っている。



緑地帯


静岡県まちなみ50選の碑
周麿画 御上洛東海道 田子浦蛇松
将軍家御上洛を描いたシリーズに、蛇の形をした松が沼津千本松原の名所絵として描かれている。多くの絵師が参加しているこのシリーズ、沼津にはこの他に平作を題材にした三代豊国の絵がある。この時代、由井から沼津にかけての一帯を田子の浦と言ったらしく、北斎の絵にも田子の浦と付く沼津の絵がある。

 緑地帯を通過してさらに東海道を1km程行くと、東間門に妙伝寺がある。
 沼津城主大久保忠佐の墓がある所だ。



妙伝寺 

放水路

 妙伝寺を出るとすぐに放水路がある。
東海道線の北側は、沼地を埋め立てた場所だが、沼津駅北側あたりの溜まり水を海へ流すために作られたものだ。



放水路の脇にある交差点を過ぎ、しばらくすると右側に西間門八幡宮がある。この神社の塀の上に沼津藩の西境を示す、従是東(沼津領)と書かれた傍示石が立っている。残念なことに、下半分の沼津領の部分が欠けている。この傍示石は東の大岡久保にある、従是西沼津領と書かれた傍示石と対になったもので、江戸時代沼津藩の領地境界を示すものだ。  
 



傍示石

★ お願い ★
  この東海道沼津宿は不備な点が多々あるかと思います。
 お気付きの点がございましたら、ご指導頂きますようお願いいたします。   

                                                                

黒瀬の渡し 浮島沼へ