東海道五十三次
沼津宿


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浮島沼へ
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東海道53次 沼津宿 浮島沼 浮世絵 歌川広重



     浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿

浮島沼へ

 富士山・愛鷹山の手前には浮島沼が広がっている。
行書版にも描かれているが、沼津名物の鰹節を忙しく干す母親の足元に子供。あわただしい中にも、母親の優しい愛情がこもった眼差しがうれしい。沼津では鰹がよく取れ、鰹節の生産量は日本一であったという。東海道の人物の様子を描いたこのシリーズ、沼津の特徴をよくあらわしている。


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歌川広重作 東海道五十三次之内 沼津(人物東海道)


歌川広重作 東海道五十三次之内 沼津 名物鰹節を製す(行書版)

 沼津名物の沼津垣で囲まれた軒先で、名物の鰹節をあわただしく干す様子。店先を通るのは、ご女。三味線を弾く盲目の女芸人で、安永6年(1777)の村明細帳によれば、三枚橋町(現在の市立図書館の場所)にはご女屋敷があり、53人のご女がいたらしい。
正面に大きな榎、遠くに愛鷹山、その手前に浮島を配し、沼津宿西端の様子を立体的に描いている。
沼津垣は、ハコネ竹を網代編にした垣根で耐久性に優れている。沼津は西風が強いため防風・防砂に使われ、街道の風物だったようで、広重の浮世絵に良く出てくる。現在、沼津御用邸記念公園や牧水記念館で再現されている。
 




沼津垣

 千本公園付近の民家では、現在も沼津垣がよく使われている。
この写真は、牧水記念館近くの民家に見られる沼津垣である。







◆ 現在の様子 ◆

 広重が描いた沼津宿西端の風景に常に見受けられた浮島沼も、放水路の完成後には新田となった。現在では浮島沼も埋め立てられて民家が建ち並んでおり、さらに工場も誘致されて当時のおもかげを残す所は少ない。広重が描いた所からはだいぶずれるが、国道一号線北側のこの辺りには田んぼがまだ残っている。埋立地は現在も地盤が軟弱なためか、周辺の建物は傾いてしまうこともあるそうだ。



浮島沼

 
 ところで、沼津という地名がどこから来たのかという疑問がある。沼については誰もが浮島沼を思い、疑う人はいない。津いは、港の意味がある。もともと沼津は港で、伊豆方面からの物資が狩野川から船で運ばれており、ここから清水や江戸に船も出ていた。そこで、港を表す意味の、津が沼津の語源であると一般に言われている。

 しかし、沼津の地形を見てみると、北に富士と愛鷹山があり、南には砂浜と松林、そしてその間に沼地が広がっているのだ。つまり、もともと海だった所に洲が出来て、囲まれたくぼ地が沼になったと考えられている。海岸線に出来た洲が語源で、これがにごって津になったものと私は考えたい。
 
 沼津に転居して10年になるが、当時、沼津の田圃は流れてしまうという事を聞き、本当に驚いた。「まさか地面が流れるわけはないでしょう。」と反論すると、実際大雨が降ると動いてしまうのだそうで浮島沼と呼ばれているとの事。埋め立てられた現在も地面が沈んで、建てた家も沈んでしまうのだそうだ。

富士市から沼津駅北口にかけて広がる浮島沼の新田開発は江戸時代から行われてきたが、困難を極めたそうだ。そもそもは沼に浮いている葦の上に土を盛って田圃を造ったらしい。大雨の前には田圃の四隅に杭を打ち込んで流れるのを防いだという。まことにすさまじい話だ。
第二次大戦中に最後の放水路が完成するまでは、田植えのときに肩まで沈んでしまったとの話も聞いた。今では理解しにくい事だが、沼津市東間門にある放水路は沼津駅北口周辺の溜まり水を抜くために造られたのだそうだ。

それでは、千本浜の洲は、どのようにして出来たのであろうか。駿河湾は常に強い西風が吹いている。そして西から東に黒潮が流れており、この潮流によって砂が運ばれて来たのではないだろうか。駿河湾沿岸の砂浜は、御用邸の先まで続いている。その途中にある狩野川河口が、北西から南東に向かっているのは潮流の影響で砂が運ばれてくるためなのであろう。黒潮は地球温暖化に伴い、12,000年前頃より日本列島沿いに北上するようになったと言われており、その後に年月を経て海中に州が出来て浮島沼が形成されたものと考えられる。


ところで、砂はどこからやってくるのだろうか。これはおそらく富士川河口に流出した川砂が源になっているのであろう。富士市の地図を見ると、滝川、赤渕川、須津川の下流が海岸に近づくと急に西走しており、このことは河口付近に後から洲が出来た事を示すものである。須津川の東側には浮島沼が広がっており、原へと続いている。
砂浜が富士川河口から東に広がっているとすれば、おそらく富士川河口付近から松原が続いているのではないかと思うのだが・・・。





歌川広重作 狂歌入り東海道五十三次 沼津
愛鷹山が富士の右にあり、街道に傍示杭と関札が立っている。描かれているのは沼津宿の西端。目の前に広がるのは浮島沼だ。

歌川広重作 蔦屋版東海道五十三次 沼津
狂歌入りと全く同様な構図だ。この沼は、見るからに底なし沼的な感じだ。中央に見えるのが浮島なのか。




神明塚古墳遠景と石碑




 西間門の八幡宮を過ぎて東海道を1キロ半程行ったところ沼津市松長に神明塚古墳がある。50m程の前方後円墳で、神明宮を祀ってあるとの事だ。近畿の強大な政治権力と連合した証であるこの前方後円墳は5世紀のものであるが、富士市にはすでに4世紀後半に前方後円墳(浅間古墳・力はあったが、近畿の政治権力の系譜には載れなかった人物)と共に前方後円墳(東坂古墳)がある。神明塚古墳の被葬者はこの地域の統治者の墓であることには違いないが、その経済的基盤は農耕だけでなく、海を基盤に成り立っていたらしい。そして、それも海からの直接的な生産物のみでなく、海上の交通権とか港の使用権なども含まれていたと考えられている。



神明宮
 古墳の上には神明宮が建っている。これは天照大神を祭って元和二年(1616)に建てられたものだそうだ。
ところで、京都府の舞鶴市にも「浮島」という地名があるそうです。こちらは「うきじま」と読むそうですが、舞鶴湾に近い所なので元々低い土地だったのでしょう。ここに小高い丘があって頂きには神社があるそうです。「嶋満神社」というそうですが、ちょっと「神明宮」に似ていますね。
こちらでは地域の人々が集って、様々な活動をされている様子が「浮島はなまるクラブ」というHPやブログに掲載されています。人々の結びつきが薄れてしまっている今日、とても和やかな雰囲気に胸を打たれる思いがしました。皆様のご努力が忍ばれます。

チョット寄り道をしましたが、沼津に戻りましょう!

◆ 根方街道沿いの史跡 ◆
 
 愛鷹山のふもとに、浮島沼の北側を旧東海道と平行して伸びている根方街道がある。中世の頃、まだ箱根が東海道の本道になっていない頃はこの根方街道が東海道であったと言う。



沼津市明治史料館(江原素六記念館)


 沼津市明治史料館は、根方街道が現在の国道1号線に接している所に建っており、沼津の歴史に関する史料を収集、研究、展示、管理している。江原素六記念館として、沼津兵学校設立、愛鷹山払下げ運動、麻布学園や沼津西高等学校の創設、沼津の教育や産業の基礎を築いた等、江原素六の業績を紹介している。
 現在、東海道400年を記念して、沼津に関わる広重の浮世絵も展示されている。





大中寺
 臨済宗妙心寺派に属し、天保12年(1841)に建立された鐘楼門は2層の入母屋造りで駿河唯一。境内は静寂で趣があり、裏庭の梅園も有名。





◆ 
興国寺城跡 ◆


 北条早雲旗揚げの城として有名。伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)は室町幕府八代将軍義政の弟義視に仕えていたが、妹の夫である駿河守護職今川義忠の要請で駿府に身を寄せていた。義忠が急死した折、跡目相続争いを調停した功績で東駿河に領地を得、長享2年(1488)に興国寺城を築城している。この時早雲はすでに57歳だったとの事。ずいぶん遅咲きだったんですね〜。

 興国寺城は愛鷹山の尾根が浮島沼にせり出した先端部にあり、その両側は湿地で天然の泥田堀に守られていた。尾根の北側は深い大空堀で切り離されて、敵の侵入を防いでいる。本丸北側は土塁が一段と高く築かれており、その南面には石垣が積まれている。天守台は平坦で、建物跡の礎石が残されている。本丸は四方を土塁で囲まれ、南側は空堀で区切られていた。さらに二の丸、三の丸と縦に並んでおり、それぞれ土塁に囲まれ、空堀で区切られていたという。本丸、二の丸、三の丸と縦に並んでいる構造は後北条の特徴だそうだ。
城は沼津市根古屋に位置し、根方道と東海道を結ぶ浜方道の分岐点にあり、甲斐、駿河、足柄、伊豆を結ぶ交通の要所に位置している。



興国寺城跡 北条早雲の石碑




天守台石垣

 
 早雲はその後伊豆を攻め、韮山城に移っている。さらに相模を攻略して小田原北条氏の基礎を築いたのはあまりにも有名。
 興国寺城のほうは、その後、今川氏の支配下に置かれた。永禄十二年(1569)に今川氏が滅亡すると、興国寺城は北条氏政と武田信玄との戦いの間で争奪の対象となった。元亀ニ年(1571)に北条氏政と武田信玄は同盟を結び、河東の地は武田に引き渡されることになった。武田はさらに天正五年(1577)に三枚橋城を築いている。

 信玄亡き後、武田勝頼は西からは徳川・織田連合軍に攻められ、東からは北条に攻められていた。天正十年(1582)二月二十八日、北条勢の攻撃により、三枚橋城はついに落城し、翌三月に武田勝頼は滅亡している。
 この時、興国寺城の方は家康に開城している。家康は直後に三枚橋城を攻め、北条を追いやり、河東の地を徳川が領地化している。
 秀吉の関東攻め後、家康は関東に移封され、その後豊臣の家臣である河毛惣左衛門尉重次が城主となっている。

 関が原の合戦後、興国寺城には家康の命により天野康景が一万石で城主になっている。しかし、城の修築用の竹木を盗もうとした天領の農民を部下の足軽が殺したことから、代官井出志摩守正次と争いになった。この時、天野康景は本田正純による幕府の裁定を退け、部下の命を守るため慶長12年(1607)に城を出たため廃城となった。康景は慶長18年(1613)相模国沼田村で没した。墓は沼田の西念寺にある。

 現在、根方街道・根古屋の北にある小高い丘の上に興国寺城後が残っている。本丸跡には初代城主北条早雲と最後の城主である天野康景の石碑がある。裏の急坂を登ると石垣が積まれた天守台がある。天守台からは駿河湾が一望でき、この場所が当時交通の要所であったことがよくわかる。

 ● 興国寺城の支配と城主 ●
 年号  西暦  大名  城主
 長享元年  1487〜  後北条  北条早雲
 延徳2年  1491          富永三郎左衛門政家
 天文6年以前  不明           青地弾正
 天文6年以降   1537〜不明  今川  不明
 永禄頃  不明〜1569          佐竹雅楽介高貞
 永禄12年以後   1569〜1571   後北条  垪和氏続
 元亀頃  1571〜  武田   保坂掃部介
 天正3年  1575頃          向井伊賀守正重
 天正10年  1582           曽根下野守正清
 天正10年  1582  徳川  牧野右馬康成
 天正10年以降  1582          松平備後守清宗・家清父子
 天正18年以降  1590〜1601  豊臣  河毛惣左衛門尉重次
 慶長6年〜12年  1601〜1607  徳川  天野三郎兵衛康景
 慶長12年  1607〜  徳川  天領

◆ 大泉寺 ◆

 興国寺城跡から、愛鷹山のふもと根方街道を西に少し行くと大泉寺がある。曹洞宗の寺で、阿野全成・時元親子の墓がある。阿野全成は源頼朝の異母兄弟、義経の兄にあたり、母は常盤御膳である。京都山城の国、醍醐寺に出家していた全成は、頼朝の挙兵を知り馳せ参じた。この時の功績により阿野の荘の領主となり、館の中に大泉寺を建て先祖を祀っていた。建仁3年(1203)源氏再興のため反北条の挙兵をするが破れ、常陸国へ流される。時元も挙兵するが破れた。




大泉寺



阿野全成・時元親子の墓

◆ 赤野観音堂 ◆

 
根方街道から愛鷹山の裾野に上がったところ沼津市柳沢に、赤野観音堂がある。
 江戸中期の建築で、十一面観音が本尊。寛永14年(1637)左甚五郎がワラ人形の霊神の加護により、三日三晩目の夜明けに完成したという俗説もあり、興味深く伝承されている。駿河一国三十番札所、駿河・伊豆両国横道十五番札所として知られている。巨木100選になっている樹齢600年大カヤの木も見事である。




 赤野観音堂


カヤの木

 愛鷹牧

 寛政9年(1797)江戸幕府は愛鷹山の中腹に愛鷹牧を開設して馬の生産に力を入れた。
 愛鷹山の野馬は、元々源頼朝が建久5年(1194)愛鷹山の水神に神馬として99頭の馬を献上したものが野生化して増えたものと言われている。
 当時、愛鷹山麓には尾上牧(中沢田の上)、元野牧(柳沢の上)、霞野牧(富士市船津の上)、尾上新牧(長泉町元長窪の上)の4枚あったそうで、毎年10月頃、野生の馬をその中に追い込んで捕らえていた。主に農耕や運搬用の馬を飼育していたようで、捕獲された馬は希望者に払い下げられていたという。
 幕府から管理を任されていた責任者を牧士といい、地元の有力農民が任命されていた。柳沢の上にあるもと野牧には四角い土手が今も残っている。

 再び東海道に戻ると原宿である。
★ お願い ★
  この東海道沼津宿は不備な点が多々あるかと思います。
 お気付きの点がございましたら、ご指導頂きますようお願いいたします。

                                                               
沼津宿から 原宿にて