東海道五十三次
沼津宿


  ・ 黄瀬川を越えて
  ・ 黒瀬の渡し
  ・ 沼津宿から
  ・ 浮島沼へ
  ・ 原宿にて
  ・ 沼津城とその周辺
  ・ 沼津の史跡と年表
  ・ 街道の様子
  ・ 庶民の旅
  ・ 浮世絵コレクション
  ・ 小道具
  







東海道53次  沼津宿 浮世絵 葛飾北斎



       
    浮世絵でみる東海道の古今  沼津宿   

〜三島宿から 〜



戦国時代沼津周辺は北条、武田、今川の三国による攻めぎ合いの地であった。旧東海道を三島市から清水町に入るところ(伊豆の国と駿河の国の境)に境川が流れており、その上をまたぐように千貫樋が掛けられている。千貫樋は、天文24年に三国間で和睦が成立した時に、北条氏康から今川氏真に贈られたとされている。三島楽寿園の小浜池を水 源としており、清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田を灌漑し多くの田畑を潤したと言われる。


北斎は沼津宿の入り口として、その千貫樋を描いています。

葛飾北斎 画 東海道五十三次 沼津
境川の上をまたぐように掛けられた、木製の大きな樋を物珍しそうに旅人が眺めている。たった今付いたばかりの男は興奮気味に樋の大きさを測っているのだろうか、両腕を前に差し出している。その隣では、そろそろ三島の方向に発とうとしているのか、六部がまだ名残惜しそうにしている。遠くには雪を被った富士が朝日に輝いて美しい。


<現在の様子>

旧東海道から見た千貫樋。ちょっと見にくいですが、正面を横切っているコンクリートの橋のような物が樋です。下を境川が向こうからこちらに流れています。
奥に入り横から見たところです。
北斎の絵にやや近い角度でしょうか。

黄瀬川の両岸地域は現代人にとって、とても平坦で過ごしやすそうな土地に見えますが、江戸時代には水が少なく、耕作には必ずしも適さない場所だったようです。当時の農民たちにより、あちらこちらに用水路が設置されており、その多くは黄瀬川から水が引かれています。境川の西岸地域では、黄瀬川からの用水路建設が困難な地形なのか、千貫樋を利用して他国(伊豆の国から駿河の国へ)から水を引くという珍しいケースだったと考えられます。
画期的だったこの用水路も、現在では住宅街をひっそりと流れていて、千貫樋を探すのにもずいぶんと時間がかかりました。水路をたどれば樋が見つかると考えた自分は、歩いてゆくと驚いた事にある所で用水路が突然民家の庭の下に消えてしまったのです。思わず目を疑いました。わき道を回り、やっとたどり着いたらそこは境川の真横。上をコンクリート製の千貫樋が通っていました。


千貫樋からしばらく来ると、公園の前に立派な常夜灯が立っている。正面には中内村と書かれており、側面には秋葉大権現、富士浅間宮と刻まれています。秋葉山常夜灯のようだ。

常夜灯


さらに沼津方面に来ると清水町伏見の一里塚がある。日本橋から数えて29番目にあたるそうだ。



玉井寺の一里塚
宝池寺の一里塚


東海道からバイパス沿いにずれると柿田川湧水群がある。ここは東洋一の湧き水の量でとても有名なところです。富士山麓に降った雨水が地中に入り、長い年月の末にここに湧き出しているのだそうだ。なんでも富士山の噴火で流れ出した溶岩の性質の違いで、水を通す層と通さない層があるようで、そのためにここから湧き出るらしいのだ。水はとても良く澄んでいて綺麗だ。
湧き水のすぐそばに何やら石垣があり、ここが泉頭城と言う北条の城だったのだそうだ。今は面影はほとんどないが、言われてみれば柿田川は良い自然の要害なのだ。