東海道53次 沼津宿 浮島沼  
     
   浮世絵でみる東海道の古今   
    浮島沼

                     浮島沼の成り立ち
   
   千本松原がどこまで続いているのかを確かめるために、先日海沿いの道を沼津市から富士市まで車で行ってみた。驚いたことに松林はずっと続いており、田子の浦港の先まで、つまりほぼ富士川河口まで延々と松が立ち並んでいたのだ。このことは富士市から沼津市に掛けての一帯が富士川の砂礫によって形成された事を示唆している。
ところで、一万年程前の沼津は、その殆どが海(駿河湾)だったらしい。沼津市だけでなく、現在の三島市、清水町、長泉町、韮山辺りまで駿河湾が広がっていたそうだ。それが黄瀬川からの砂礫で埋められていったとのこと。砂礫の多さでは狩野川に比べ黄瀬川のほうが圧倒的に多いそうで、それは現在の狩野川が下流で蛇行して西側の沼津アルプスに圧迫されていることや、南走する大場川がJターンして狩野川に合流する走行や地形(沖積低地)からも想像できる。
一方、富士川からの多量の砂礫は駿河湾の西風と沿岸流(潮流)に運ばれ、富士川河口から沼津市の御用邸公園前までの広大な砂州を形成した。
沼津城のあった場所(現在の沼津市大手町辺り)には島があり、その周囲で黄瀬川の砂と富士川の砂がぶつかり合い、浮島沼は閉鎖され駿河湾から分離されたと考えられる。その後も両者はせめぎ合い、狩野川河口を形成し続けているのだ。
駿河湾から分離された浮島沼は真水になり、富士山や愛鷹山からの小河川により沼地化していった。
沼地は一般的に、陸にある窪地に水が溜まったり、川が堰き止められて出来るそうだが、浮島沼のように海から沼地が出来るのは珍しいケースのようだ。
   
   

             沼津市史・自然環境