東海道五十三次
沼津宿


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  ・
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〜 since 2008.4.16 〜


<原宿の浮世絵>
東海道53次 浮世絵 歌川広重  


 
  浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿   
 
街道の様子

 関が原の戦いに勝利した家康は、翌慶長六年(1601)伝馬制度を確立した。幕府の公文書や役人が往来し、さらに参勤交代が制度化されると宿泊所としての本陣や旅籠が必要になった。街道には一里塚や松並木も整備され、これら交通事情の発達は、江戸の文化を地方にもたらし、次第に庶民の旅行意欲も見られるようになった。
東海道五十三次の「次」とは、各宿駅で伝馬、飛脚の継ぎ立てを行ったことから付いた名で
、東海道は日本橋から京都まで55の宿場があった。ちなみに沼津は江戸から数えて13番目の宿駅だった。


◆江戸(日本橋)◆



 東海道五拾三次之内 日本橋・朝之景

 日本橋とは江戸城の堀から隅田川に注ぐ日本橋川に架かった橋である。江戸の中心地で、東海道を含む5街道はここが起点になっている。
 広重は早朝に江戸を立つ大名行列の先端を描いている。「お江戸日本橋七つ立ち」と歌の文句にある七つとは、今の午前4時。大木戸が開かれる時間だったそうだ。
 橋のたもとには魚河岸があり、仕入れた魚を天秤棒で担いでいる魚屋のあわただしい姿が早朝の雰囲気を表している。ここに示す絵は後摺りで、右側に大勢の町民の姿が加えられている。

名所江戸百景 日本橋雪晴
 この絵は広重晩年の傑作で、全部で120もあるシリーズ物の第1図で、東海道ものではないが転用した。
 保永堂版の日本橋とは、ちょうど180度逆方向からの眺めになっており、このまま左に進むと京都方向になっている。
 手前に早朝の魚河岸を描き、魚が沢山並んでいる前を天秤棒を担いだ棒手振たちが慌しく行き交っている。中央の日本橋上には早朝に行き交う人々の様子を、その向こうに江戸城とさらに遠景に雪を被った富士山を配している。雪晴れの早朝にもかかわらず混雑する日本橋界隈の様子が如実に描かれている。
歌川広重作 東海道五拾三次之内 品川

日本橋を七つ立ちした大名行列が品川宿に差し掛かったところだ。空にはまだ朝焼けが残っており、海には多くの回船が停泊している。行列の最後部を見送る茶屋の女たちは土下座せず、立ったままである。


 日本橋を出て東海道は神奈川まで左手に海を見て進む。
 神奈川宿は上台町から海を望む眺望がとても良かったと言う。広重は下台町から上台町を望む構図で宿場を描いており、茶屋の下女に誘われる弥次郎と喜多八と思われる旅人の様子が面白い。その手前を無関心に、平然と歩を進める巡礼の親子と六部の姿が対照的だ。
左手の海には漁をする漁船のほか廻船も描かれており、港町の様子が伺える。

                    東海道五十三次 神奈川


◆ 宿場のしくみ ◆

 この時代、宿場と言ってもその家並みは街道に沿って左右一列に並んでいるだけの所が多く、すぐ外側には田畑が広がっている。
ここ保土ヶ谷宿の中央には帷子川が流れており、広重はこの川に架かる新町橋を中心に宿場の様子を描いている。背後の山は箱根駅伝で有名な権太坂である。現在は崩されてなだらかな坂になっているが、当時は江戸を出て最初の難所だったのだそうだ。その昔、道を聞かれた耳の悪い老人が自分の名を聞かれたと勘違いして権太と言ったところから付いた名だと言う。



東海道五十三次之内 保土ヶ谷・新町橋

石薬師宿は宿場なる前は農村だったそうだが、広重は周囲に広がる収穫後の田畑で働く農民の様子を中心に、寒村のような宿場の様子を描いている。宿場町といっても賑わっている訳でもなく、ほとんどの人は農民だったのだ。


● 問屋場
 宿場には、旅人の宿泊や休憩だけでなく、物資輸送の役割と飛脚業務がありました。この物資輸送を管理していたのが問屋場なのです。
 宿駅とは、そもそも伝馬制度を制定して、おおよそ2里毎に伝馬朱印状を継ぎ送るために宿駅を設けたのが始まりなのです。
 宿場で人馬の継ぎ立ての仕事を行っていた問屋場の主な仕事は、朱印状を持った幕府の公用者に対し、人馬を供給し、公用の文書を運ぶ飛脚を管理することだった。各宿駅では、これら朱印状を持った物資を次の宿駅に無料で輸送する事が負わされていたが、その代わりに、旅人を宿泊させたり、一般の荷物を運ぶ権利を得ていた。
 これらの輸送のため、各宿では人足百人、馬百匹を用意する事が義務づけられており、宿内の人足ではまかなえない場合には、近隣から助郷役として調達した。
問屋場には、問屋、年寄り、帳付などの役職があった。




東海道五十三次之内 庄野・人馬宿継之図 (行書版)


 前の宿から運んできた荷物がここで積み替えられている。人足と馬が交代して次の宿場まで行くのだ。ここまで運んできた者たちはタバコを吸ったり、荷を降ろしてリラックスしている。これから運ぶ者は馬上に荷を付けたり、草鞋を締め直したり準備に余念がない。
 武士が一人問屋場の前に立っており、共の者は書類(伝馬朱印状だろうか)を出して役人が確認作業をしている。この時代、幕府公用の荷物などは運送料が無料だったのだ。
 手前では帳付が上役人と何やら話をしている。帳付がチェックした荷物の確認をしているのであろうか。
 一般人が荷物を運ぶ場合にはもちろん有料なのだが、料金でもめた時に相手が上がって来れないようにするために問屋場の床は高くなっているのだそうだ。


● 助郷役
 宿駅では、問屋場運営にあたり(伝馬朱印に応じて)、人馬を提供する必要があった。しかし常に人馬を維持することは難しく、不足分は近隣の村々から補充した。この夫役を助郷役と言った。参勤交代の制度化に伴って、助郷役も恒常的になり、不足したため増助郷、加所郷として遠方の村々にも要求された。
沼津宿では御殿場や小山町の方からも、人足や馬が駆り集められていた。
この制度は、明治5年(1872)に廃止された。



原宿助郷絵図


原宿助郷絵図(静岡県立中央図書館所蔵)によると、原宿の助郷役は近隣の定助郷とかなり離れた加助郷、新加助郷とで構成されており、全部で85ヶ村が負担していたことが分かる。

● 早籠
 早馬制度がなかった時代の急使派遣制度で、宿場で引き継ぎながら籠に急使を乗せて昼夜兼行で目的地まで走った。早籠で最も有名なのは忠臣蔵だ。浅野内匠頭が江戸城松の廊下で起こした刃傷事件を赤穂まで知らせるのに、170里(668km)を四日半で走ったそうだ。広重は東海道と中山道が交わる草津宿の「乳母が茶屋」前を京に向かって走る早籠
を描いている。必死になって紐にしがみついている使者を乗せた籠を二人で担ぎ、それを前から引く者、後ろから押す者、横から掛け声を掛ける者が一体となって急いでいる。前を行く荷物を運ぶ者たちと比べると躍動感が違う。

       
       
    東海道五十三次之内 草津
 



● 飛脚
 飛脚には幕府関係の継飛脚と大名飛脚、町飛脚があった。これらの飛脚により文書が運ばれ、宿には待機している人足によって、リレー式に運ばれていた。
 府中・安倍川の図 で、対岸よりこちらに向かってくる一団の中に棒に括りつけた状箱を担いでくる人がいるが、この人は幕府公用の書状を運ぶ継飛脚なのだそうだ。飛脚は走っていないと我々素人には分からないですね。

東海道五十三次之内 平塚 

荷物を担いで街道を走っているのは町飛脚だそうだ。結構大きな物も担いで走るんだなー。荷物の上に荷札がつけてある。依頼者の名前が書いてあるのだ。

 東海道名所図絵 四日市
橋の上を継飛脚が走っている。黒の一文字ぼかしがあるので夜なのだろうか。棒の先に文箱をくくりつけて走る飛脚の前に御用提灯を掲げて走る伴走者がいる。昼夜兼行で走っているので特急便なのだろう。継飛脚はこのように二人一組で走ったらしい。

歌川広重作 東海道五十三次之内 赤坂 (行書版)
夜の街道を飛脚たちが急いでいる。左から、公用の文書を運ぶ継飛脚で、相棒が御用提灯を掲げている。継飛脚が行くときは、他の通行人は避けなければならない決まりだそうだ。中央を馬に乗って行くのは民間の定飛脚の宰領だ。右端の廻しガッパを着た人は、書状を運ぶ民間の飛脚だそうだ。


本陣 

 勅使 院使 官 門跡 公家 大名 高家 旗本だけが利用した宿泊施設で、各宿場に1軒以上あった。問屋や名主など、いずれもその宿の名家が代々引き継いでいた。そこの主人には苗字帯刀が許され、門や玄関、上段の間等を設けていた。
大名は、各宿場で一定の本陣と契約し、定宿にしていたようだ。本陣には大名と重臣のみが泊まり、他の家臣は旅籠に分宿した。本陣前には宿泊中の藩主の名を書いた関札を立て紋入りの幕をひいて、往来の者にすぐわかるようにした。


狂歌入り東海道  関




大名も素泊まりが原則で、調理はもちろん風呂桶まで持って歩いたようだ。その意味では本陣は木賃形式の宿泊施設といえる。
沼津宿の下本町には街道の東側に清水助左衛門本陣、街道の西側には間宮喜右衛門本陣があった。
本陣には、連日大名が泊まるわけではなく、一般の旅人は宿泊出来ない為、経営は苦しかったようである。大名が本陣を利用した際の宿銭は、大名の石高によって差があったらしい。家々の品格に応じて、利用者が宿賃を本陣などに賜るという形を取っていたようだ。嘉永4年に、沼津清水本陣を利用した大名は19家で、28両2分が清水本陣に支払われている。


●脇本陣

 本陣に次いで格式の高い施設で、本陣と同様に大名や旗本が宿泊した。同じ宿場に複数の大名が宿泊する場合には格上の大名が本陣に宿泊したという。大名が利用しないときには、一般客も宿泊した。
 沼津宿には、彦左衛門脇本陣、九左衛門脇本陣、市左衛門脇本陣、重左衛門脇本陣が本町にあった。


●旅籠

 一般庶民が利用した宿泊施設。利用者に食べ物を料理して提供する宿屋を旅籠と称し、多くが二階建てだった。旅籠には平旅籠と飯盛旅籠があるが、平旅籠には飯盛女を置いていなかった。泊り客確保のため、旅籠では留め女や飯盛り女を置いていた。飯盛り女とは遊女を兼ねた未公認の売笑婦で、これを置く宿場は風紀も乱れたがよく栄えた。旅籠は、一泊二食つきで200文程度であったらしいが、1部屋に1人と言うわけにはいかず、ほとんどの泊り客は相部屋であったそうだ。
 ここ赤坂宿では旅籠の中の様子が裏庭から覗いた構図で描かれている。
 湯上りの男が一人、ぬれ縁を部屋に戻って来た。手拭を肩にかけとても気持ち良さそうだ。部屋の中では湯上りの別の客が、呼ばれて来たあんまと話している。ちょうどお膳も運ばれ、これから夕食のようだ。右側の部屋では招婦が熱心に化粧をしている。中央には急な階段があり、二階から降りてくる男の足が見えている。よく見ると、この足の指は六本あるのだそうだ。階段があることから、この旅館が二階建てであることが分かる。当時二階建ての旅館のほうが高級だったようで、そのような所にだけ飯盛り女がいたそうだ。



東海道五十三次之内 赤坂・旅舎招婦ノ園


 東海道五十三次之内 御油

赤坂の江戸よりの隣に御油がある。その間はその間は距離が短かったので、客引きの留女が多かったそうだ。広重は強引に客を引き込もうとする留女の様子を描いている。壁面には竹之内板の名が、講中札には一立斉図、摺師平兵衛、彫工治郎兵ヱ、東海道続画などの宣伝文が書かれている。


● 木賃宿
 旅人が寝具、食料を持参して自炊形式で利用する宿を指した。後に、宿泊料金の安い宿のことを称するようにもなった。利用者はもっぱら庶民層の旅行者で、多くは宿場の端に作られていた。旅籠は二階建てが多かったのに対し、木賃宿は全て平屋建てであった。
   東海道五十三次 行書版 水口
    


● 茶屋
 宿場にあって旅人が休憩し、お茶や飯を出すところ。その土地の名物を出す所もあった。宿場はずれにあったものを称した。茶屋には藩直営の茶屋と自然発生的に出来た茶屋があった。茶屋にも旅籠と同じく給仕女を置くところもあった。茶屋が10軒以上固まると間宿となった。山中宿はそうしてできた間宿であったらしい。


 東海道五十三次之内 鞠子・名物茶店


● 出茶屋
 しっかりした構造物の場合に茶屋と言い、移動できる構造のものを出茶屋と言ったそうだ。
 東海道五拾三次之内 袋井 出茶屋ノ図には背の高い傍示杭が描かれており、宿場境にあったようだ。その脇にある大きな木の枝から薬缶をつるし、火を起こしているのは茶屋の女であろう。駕籠やも休憩をとっており、キセルに火をつけている。茶屋で休んでいる旅人は一服しながら高札にとまっている小鳥に目をやっている。この高札は袋井宿に泊まっている大名の名が書かれている関札で、ここを通る旅人に情報を知らせているのだそうだ。遠くには馬を引く村人の姿も見える。午後のひと時であろうか、実にのんびりとした街道の一こまである。


 東海道五十三次之内 袋井・出茶屋ノ圖


● 立場茶屋
 宿と宿の中間にあって人足や馬を継ぎ立てた場所を立場と言う。立場周辺にあって駕籠や旅人が休んだ所で、廉価であったため、緊縮財政の大名までもが利用したと言う。その構造も部屋を壁で仕切らず、建具で仕切らねばならず、あくまでも旅籠とは区別され宿泊は禁じられていた。
       
       
          狂歌入り東海道 原  
       



● 見付
 宿場の出入り口には見付と呼ばれる施設があった。これは宿場の入り口を示すための物であったと同時に、非常時には外敵の進入を防ぐ役目もあったようで、土塁の上には木製の柵が取り付けられていた。残念ながら、沼津の見付は残っていないが、出口町に見付跡の石碑がある。
東海道五十三次之内 藤川 棒鼻ノ図には左右の見付が大きく描かれている。その脇で宿場役人が朝廷への御馬献上の行列を迎えている場面で、見付脇には傍示杭と関札も立っている。



東海道五十三次之内 藤川・棒鼻ノ図


● 高札場
 札の辻とも呼ばれ、幕府が発した基本的な法令を提示した場所。高札場は宿場や街道、船着場など、人目につき安い場所におかれた。キリシタン禁止、火付け禁止などの高札が一般的であった。「藤川・棒鼻ノ図」の右下にも後ろから見た高札場の屋根が描かれている。


● 関札
宿場の入り口にある立札。本陣に宿泊している大名の名を記してあり、宿泊大名が勝ち合わないようにしたり、旅人に庶民に情報提供をしてトラブルの発生を予防している。
同様の目的のため、本陣の前に立てるものもある
       
       
     東海道五十三次之内 関・本陣早立  
       



● 傍示杭(石)
 街道沿いにあって、宿場境や領地境を示す施設。木製のため現存する物が少ないが、傍示杭を描いている浮世絵は多い。沼津領の東西にある傍示杭は石製なので現存している。
 
      
     沼津領西傍示       沼津領東傍示  
大久保忠佐の死後、1614年に三枚橋城は廃城になった。その後沼津は天領となり、韮山の代官江川太郎左衛門の支配下にあった。
初代沼津藩藩主 水野出羽守忠友は1777年に将軍家治の御側用人になり、加増されて2万石の大名となった。この時、忠友は沼津の地に所領(1万4千石)を与えられ将軍から築城を命じられている。
翌1778年2月8日に「従是西 沼津領」のが韮山代官所から運ばれ、東海道沿いの木瀬川村と下石田村の境界に建てられて沼津藩領域が確定した。
水野家はその後5万石になり明治維新まで8代続き、忠友以下3名の老中や若年寄を輩出した名家である。
傍示杭はその後石製の物に作り替えられ何度か小移転されたが、元々は当駐車場右端に建てられていたものである。                沼津史市より





◆ 街道の様子 ◆


● 松並木
 参勤交代の便を計るため、街道沿いに松を植えたと言う。旅人も迷わず、広葉樹と異なり落葉することもなく、夏の強い日差しを避けるとともに冬の強い風から身を守るのに好都合であった。
この辺りでは三島の松並木は美しい。



初音が原松並木


遊歩道


錦田一里塚(北側


錦田一里塚(南側)


● 左富士
 東海道を江戸から京に向かう途中、富士は常に右側に見える。富士市吉原を通過中、くねくねする松並木の途中左に富士を臨む場所がある。これを左富士と呼んでいる。珍しい光景である。



歌川広重作 東海道五十三次之内 吉原・左富士



● 一里塚
 東海道を始めとする街道が整備された江戸初期に、日本橋を基点として1里ごとに街道の両側に塚を作って木を植えた。これが一里塚で、街道の松と区別しやすくするために榎が植えられる事が多かった。旅人が旅路の目標にしたり、木陰で休息するのに利用された。又、馬や駕籠の料金を決める目安になっていた。沼津の一里塚は黒瀬橋際にあり、ちょうど30番目にあたるそうだ。清水町伏見の宝池寺と玉井寺にある29番目の一里塚から正確に測ると沼津宿内になってしまうので、少し手前にずらして設置されたそうだ。


 


玉井寺の一里塚


宝池寺の一里塚

狂歌入り東海道 庄野
広重は狂歌入り東海道の庄野に一里塚を描いている。のんびりとした田園風景の中に、早駕籠と継飛脚がちょうどすれ違ったところで、静と動の対比が見事だ。


● 関所
幕府は、通行人の取締りのため関所を設けた。特に箱根の関所は有名。
東海道には他に荒井の関所がある。この関所を通るのには関所手形が必要であった。「入り鉄砲に出女」と言われるように、外様大名に対する防衛が主目的であったと言う。




東海道五十三次之内 荒井・渡舟ノ圖


狂歌入り東海道 荒井


 舞阪から荒井へ浜名湖を渡ったところに荒井の関所があった。広重の保永堂版では絵の右端に関所が描かれている。船着場がちょうど関所の中になっていたようだ。


● 川越
 東海道沿いの川には防衛のため、橋が架けられていなかった。最も橋を架けたくとも架橋技術がなかった一面もあるかも知れない。黄瀬川では橋が大雨で何度も流され、その都度架けなおした。
 いずれにしても、渡川は難所として多くの旅人を悩ませた。浅い川では歩行渡し、肩車渡し、蓮台渡し、馬渡しなどがあり、大きな川では船で渡らなければならなかった。静岡県の河川では、酒匂川、興津川、安倍川、瀬戸川、大井川では歩行渡し、肩車渡し、蓮台渡し、馬渡しが、富士川、天竜川では船渡しが行われていた。旅人達は川会所で人足賃や輦台賃を支払い人足の手を借りて川を渡った。
川越の運営は、川役人があたり、増水すれば川留めになり、川の両側の宿は川留めで賑わったという。

  


東海道五十三次之内 府中・安倍川



東海道五十三次之内 奥津・興津川


 有名な大井川だけでなく、安倍川や興津川にも橋は掛かっていなかった。


● 峠越
 東海道にはいくつもの山越えがあった。それらは何れも難所であったが、特に箱根と宇津ノ谷峠、鈴鹿峠は険しい山道で東海道屈指の難所と言われていた。
広重は街道随一の難所とされた、“天下の険”箱根の山越えを描いている。急峻な険しい山肌は見る者を圧倒する。難所の山あいを通る大名行列の姿がわずかに覗いてその険しさを表している。絵の左半分には穏やかな芦ノ湖面とその上に見えるなだらかな嶺々と富士の山(よく見れば白い富士山があります)を描き、バランスをとっている。広重傑作の一枚だ。
この絵、主峰の頂は黄緑色に塗られているが、実際箱根の山は笹で覆われている。この黄緑色は笹竹の色なのだ!



 東海道五十三次之内 箱根・湖水圖

 



● 城下町
 江戸から京都までには小田原、沼津、駿府、掛川、吉田、岡崎、桑名、亀山城などがある。
江戸時代に最も栄えた城下町は武士だけでなく商人が店を並べ、賑わいを見せた。




東海道五十三次之内 濱松・冬枯ノ


 浜松城は家康が岡崎城から移り、駿府城に移るまでの間に居城として使用した東海道屈指の城。江戸時代にはいずれも譜代大名が居城とした。
広重の描いた浜松は、遠くに城を望む大杉の下で焚き火をしている。遠慮がちに当たっている旅人を大杉の右に配し、単純な構図の中に安定感を与えている。
 右手に見える松林は、ざざんざの松と言って、足利義教将軍が富士見の途中ここで宴を張り、「はま松の音はざざんざ」と謡った事からそう呼ばれるようになったのだそうだ。手前に案内板が建っているのが見える。



 東海道五十三次之内 吉田・豊川橋


 近景に普請中の吉田城を、遠景い大名行列が渡っている豊川橋を描いている。橋のたもとには港に停泊している船の帆柱が見える。
北斎を彷彿とさせる、私の好きな構図だ。

 東海道五十三次之内 亀山

天然の台地にある亀山城。その周囲に城下町は作られている。右上にある木の柵は京口門で、城下町はこの中にある。左下に見える家々は隣村なのだそうだ。広重は朝焼けが残る雪晴れの図を描いている。雪の斜面に当たった太陽の光が実にまぶしく光り輝いている。まさに素晴らしい雪晴れである。その斜面を大名行列の一行が登ってゆく。



● 馬市
 池鯉鮒宿の東に広がる野原で、毎年春に馬市が開かれていたという。
山之内一豊が駿馬を買ったのは、この馬市だったのだろうか。



 東海道五十三次之内 池鯉鮒・首夏馬市


●名物
旅の楽しみはなんといっても土地の美味しい物を食べることだ。一日40km位歩いたといわれる当時の人にとって、途中の茶屋で食べる名物に舌鼓を打ったに違いない。
庶民の旅が盛んになると、地元に帰って話をするので宣伝効果があり、地方の名物も次第に全国に知られるようになったと言う。


  駿河・吉原 山川白酒

       駿河・府中 安倍川餅


   駿河・鞠子 とろろ汁
府中の安倍川餅や二川の柏餅は当時から全国区的に有名であったそうだ。
桑名の焼き蛤は松かさで焼くのが美味しい焼き方だそうだ。先日もNHKの「ガッテン・ガッテン」でも紹介していた。絵をよく見ると松かさで焼いているのが分かる。
    


    三河・二川 柏餅


    伊勢・桑名 焼き蛤
沼津から吉原にかけて富士沼が広がっていた。ここで捕れる鯰と鰻は名物で、街道には蒲焼を出す店が並んでいたそうだ。
広重の描いた絵は、鯰か鰻か分かりにくい。
薩た峠の手前にある倉沢の立場茶屋・望嶽亭藤屋では、海女が捕ってきたサザエをつぼ焼きにして出したという。

 
 駿河・由井 サザエつぼ焼き



    遠江・日坂 蕨餅




● 眺望
 歩き疲れた旅人の目を休める景色の良いところは、道中そこかしこにあっただろうが、目の前が急にパッと開かれて景色が変わる場所では驚きとともに感動もひとしおだろう。




東海道五十三次之内 由井

 薩た峠から望む富士は、東海道中有数の絶景と言われている。現在も広重の描いた構図そのままの眺望が楽しめる。
 峠越えの道が出来る以前、東海道は海沿いの細い危険な道だったそうだ。「田子の浦ゆ打出て見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は零りける」と歌った山部赤人は、がけの裏から突然姿を現した雄大な富士の姿に感激して詠んだのだそうだ。望嶽亭藤屋が今もある。



 東海道五十三次之内 白須賀・汐見阪圖


 白須賀宿を出て江戸へ向かうとすぐ海を望む汐見坂に出る。ここから遠州灘の眺めは東海道中随一と言われていたそうだ。広重は、広々とした遠州灘、遠くに浮かぶ白帆の回船、手前の波間の漁船、浜辺の民家や三角形に掛けられた地引網と、この汐見坂を下っていく大名行列を描いている。京から江戸に向かった場合、宮宿を出てからここまで来るのに山道を九つの宿を通り過ぎているのだから、広重がこの場面を描いているのは当然と言える。




東海道五十三次之内 坂之下・筆捨嶺

 鈴鹿の山には奇岩怪石が随所にあり、松の古木や楓が生えており滝も幾筋か流れて景勝の地であった。この岩根山は別名筆捨山とも呼ばれていたそうだ。室町時代の画家、狩野元信がこの山を描こうとして描けず、筆を捨てたところから呼ばれるようになったと言われている。広重は茶屋で休憩している旅人が、この絶景に見入ってしまい、思わず様々な格好をしている様を描いている。その手前を行く牛を引いた農夫と子供が、見慣れた景色に感動するでもなく淡々と歩いている姿は対照的である。


● 霧・雨・雪
 長い旅路の途中には、様々な天候に出会うであろう。広重は春夏秋冬、朝昼晩、風雨霧雪、様々な場面における庶民の様子を情感溢れるタッチで描いている。




東海道五十三次之内 三島・朝霧

 三島大社前の朝霧が立ち込める早朝の図。中央の籠や馬はハッキリ見えるが、周辺の鳥居や人影はシルエットで描かれており、霧に包まれた様子が巧みに表現されている。広重の傑作とされている。



 東海道五十三次之内 庄野・白雨

 突然の夕立にあわてて走り出した人々が描かれている。坂道を駆け下りる鍬を持った農夫。懸命に坂を登る籠。背景の竹やぶは揺れ動くシルエットで描かれ、強い風雨の激しさを表現している。東海道53次の2大傑作と言われている。




東海道五十三次之内 蒲原・夜之雪

 坂道や家々、背景の山などの全てを白と黒だけで表現しており、深々と雪が降る静けさの中を歩く村人だけをカラーでくっきりと描いている。優雅な情感溢れる、広重畢生の大作とされる夜の雪景色である。






● 参勤交代
 江戸幕府に対する挙兵を防止するため、大名の妻子を江戸に住まわせ、隔年で江戸と領地に住まわせる制度。
 「武家緒法度」寛永12年(1635)によって制度化された。
 江戸と国許を毎年往復する参勤交代の旅は、禄高に合わせて部下を100人から1000人以上も供に連れての旅で、費やす費用も大変なものであった。その費用を捻出するために地方の大名(外様)は力を失い、幕府に反抗する力を適度に奪うのが目的だった。外様大名は四月、譜代大名は六月と参勤交代時期が決められていた。街道筋では、商業が栄え、文化の交流に寄与し、街道を発展される基礎となった。
 大名の半分は常に江戸に参勤していたわけで、江戸家老始め多くの家来が江戸に集まっていた。江戸で生産をしない武士達は、ただ使う一方なわけで、領土の年貢を江戸で消費する構図が出来上がったとも言える。江戸の経済は発展し、余裕のある商人達が大勢生まれた。

● 大名行列
 参勤交代の行列を大名行列と呼んだ。行列の規模は禄高や格式に合わせて行われた。行列の先端はお触れ役、次いで鉄砲隊、弓隊、槍隊など、さらには騎馬隊と続いて駕籠が来る。大名が乗った駕籠の周囲には供侍、駕籠脇、草履取りが控え、重臣の駕籠がそれに続いた。



沼津水野出羽守御入部行列絵図(愛知県西尾市立図書館所蔵)


 この行列は五万石の格式で描かれているそうで、二代目藩主水野出羽守忠成の参勤交代における、沼津への帰国を描いたものだそうだ。供侍たちの服装もその位によって異なっている。
 広重は大名行列を多く描いている。
 まず初めに早朝の江戸を出発する大名行列の先端が、日本橋の上に次々に現れてくる様子を真正面から見据え、東海道シリーズの出発点にふさわしい力量感ある作品である。次いで品川宿では行列の最後尾が江戸を出てゆくところを。箱根、白須賀、亀山では山間を行く見え隠れする姿で捉え、岡崎では矢矧橋を渡っている全体像を。



東海道五十三次之内 岡崎・矢矧之橋


 さらに嶋田・金谷では大井川を渡る大名行列の様子を二宿に渡り俯瞰図的に描いている。
 ここ土山では激しく降る春雨の中、肩を落として田村川を渡る行列の先頭を描いている。橋の向こうに見える林には坂上田村麻呂を祭った田村神社がある。林の何本かが黄色に描かれているのは稲妻閃光を表しており、春雷の中を強行する大名行列との説がある。



東海道五十三次之内 土山・春之雨



● 一般庶民の旅
 江戸時代の旅は許可が必要で、伊勢参り、金毘羅参り、善光寺参りなどの参詣の旅かこつけて、許可をもらっていたようだ。その途中で全国の名所、旧跡を回るように計画していた。

 1日に歩く距離は、8〜10里が一般的であった。東海道は、125里なので、12〜13日くらいかかった。朝早く、まだ暗い内に出発して、日没前に宿に入るようにした。暗い夜道の旅は非常に危険で、追いはぎや雲助が出没した。また、早く宿について風呂に入らないと、汚れた風呂に入る羽目になってしまうからなのだ。宿代は、一泊二食付きで200文が相場だったようだ。
 この時代、庶民が旅に出るのはとても大変で、自由に行くことは出来なかった。さらに危険を伴う旅は、結構覚悟が必要だったようで、今生の別れをも覚悟してのものでもあったようだ。

 路銀を用立てるのも大変で、村内で講をして、代表者が旅に出たらしい。路銀のない旅人もかなりいて、街道筋の人々は食べ物を与えたりして支援したようだ。東海道五十三次之内 沼津宿 黄昏図 に描かれている巡礼の親子が手に柄杓を持っているのは、施しを受けるための物のようだ。


東海道五十三次之内 沼津・黄昏図

 当時の旅は、のんびりしたもので、移動することそのものが娯楽であったようで、庶民にとっては見聞を広める良い機会であったと言う。
 旅人の服装は、頭の上から陣笠、振り分け荷物、合羽、着物、羽織り、手甲、股引、脚絆、草鞋という姿が一般的であった。一方、女性の旅姿は、管笠か手ぬぐいの姉さんかぶりで、着物の裾を細紐でたくし上げ、足袋に草履が相場だったようだ。

 草津・名物立場 には大勢の旅人が描かれている。
 うばが茶屋の右側の道を、振り分け荷物や天秤棒を担いだ二人の旅人が歩いてゆく。茶店の中にはたった今入ってきたばかりの葛籠を背負った巡礼の親娘や、荷を背負った旅人が何処の席に就いたらよいかと店の様子を伺っている。店内には幾つもの縁台があり、それぞれに腰を掛けた客がおり、美味しそうに姥が餅を食べている人もいる。男も女も、皆旅人のようだ。店の前では軽尻馬に人が今まさに乗り込もうとしており、駕籠かきが客を待っている。
 旅の必需品は往来手形で、庶民の旅には絶対必要だった。百姓、町人に名主や寺が発行した。一般的な携帯品には手ぬぐい、弁当箱、薬、針、矢立、下着、扇、風呂敷、タバコ道具、ろうそく、火打石、枕などであったそうだ。





◆京 三条大橋◆


 東海道53次名所図会 京 三条大橋

 三条大橋が東海道53次の終点だ。同時に京の入り口になっている。
 保永堂版の京師を持ち合わせていないので、東海道53次名所図会シリーズを転用した。“木瀬川を越えて”のページにある“沼津”と同じシリーズだ。
 広重は三条大橋の上を行く人たちをメインに描いているが、背景は保永堂版の京師とほぼ同じで東山方向に向いているようだ。橋上の人物は茶筅売り、被衣を被った公家の子女、行商に来た二人連れの大原女、商家の娘など京の人達を選んでいる。遠景には清水寺の大屋根や八坂の塔なども見られ、江戸庶民が憧れてしまいそうな優雅な雰囲気をかもしている。



歌川広重・三代豊国作 双筆五拾三次 京

 これは“沼津宿から”のページにある“沼津”と同じシリーズだ。
 背景を広重が描き、人物を三代豊国が描いたものだ。
 高欄頭巾金物の付いた三条大橋の欄干を大きく、遠景には清水寺を清水寺の舞台と共に見る者の視線を意識したかのように印象的に描かれている。





東海道五十三次之内 京師・三条大橋

三条大橋と東山を描いている保永堂版の名品。この時代、橋桁は石製であったそうだが、この絵では木製に描かれていることから、広重は京に行っていないのではないかと言われているようだ。


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