◆ 浮島沼 ◆
 広重が描いた沼津宿西端の風景に常に見受けられた浮島沼も、放水路の完成後には新田となった。現在では浮島沼も埋め立てられて民家が建ち並んでおり、さらに工場も誘致されて当時のおもかげを残す所は少ない。広重が描いた所からはだいぶずれるが、国道一号線北側のこの辺りには田んぼがまだ残っている。埋立地は現在も地盤が軟弱なためか、周辺の建物は傾いてしまうこともあるそうだ。
     
                浮島沼  
  ところで、沼津という地名がどこから来たのかという疑問がある。沼については誰もが浮島沼を思い、疑う人はいない。津いは、港の意味がある。もともと沼津は港で、伊豆方面からの物資が狩野川から船で運ばれており、ここから清水や江戸に船も出ていた。そこで、港を表す意味の、津が沼津の語源であると一般に言われている。

 しかし、沼津の地形を見てみると、北に富士と愛鷹山があり、南には砂浜と松林、そしてその間に沼地が広がっているのだ。つまり、もともと海だった所に洲が出来て、囲まれたくぼ地が沼になったと考えられている。海岸線に出来た洲が語源で、これがにごって津になったものと私は考えたい。
 
 沼津に転居して10年になるが、当時、沼津の田圃は流れてしまうという事を聞き、本当に驚いた。「まさか地面が流れるわけはないでしょう。」と反論すると、実際大雨が降ると動いてしまうのだそうで浮島沼と呼ばれているとの事。埋め立てられた現在も地面が沈んで、建てた家も沈んでしまうのだそうだ。

富士市から沼津駅北口にかけて広がる浮島沼の新田開発は江戸時代から行われてきたが、困難を極めたそうだ。そもそもは沼に浮いている葦の上に土を盛って田圃を造ったらしい。大雨の前には田圃の四隅に杭を打ち込んで流れるのを防いだという。まことにすさまじい話だ。
第二次大戦中に最後の放水路が完成するまでは、田植えのときに肩まで沈んでしまったとの話も聞いた。今では理解しにくい事だが、沼津市東間門にある放水路は沼津駅北口周辺の溜まり水を抜くために造られたのだそうだ。

それでは、千本浜の洲は、どのようにして出来たのであろうか。駿河湾は常に強い西風が吹いている。そして西から東に黒潮が流れており、この潮流によって砂が運ばれて来たのではないだろうか。駿河湾沿岸の砂浜は、御用邸の先まで続いている。その途中にある狩野川河口が、北西から南東に向かっているのは潮流の影響で砂が運ばれてくるためなのであろう。黒潮は地球温暖化に伴い、12,000年前頃より日本列島沿いに北上するようになったと言われており、その後に年月を経て海中に州が出来て浮島沼が形成されたものと考えられる。


ところで、砂はどこからやってくるのだろうか。これはおそらく富士川河口に流出した川砂が源になっているのであろう。富士市の地図を見ると、滝川、赤渕川、須津川の下流が海岸に近づくと急に西走しており、このことは河口付近に後から洲が出来た事を示すものである。須津川の東側には浮島沼が広がっており、原へと続いている。
砂浜が富士川河口から東に広がっているとすれば、おそらく富士川河口付近から松原が続いているのではないかと思うのだが・・・。


歌川広重作 狂歌入り東海道五十三次 沼津
愛鷹山が富士の右にあり、街道に傍示杭と関札が立っている。描かれているのは沼津宿の西端。目の前に広がるのは浮島沼だ。

歌川広重作 蔦屋版東海道五十三次 沼津
狂歌入りと全く同様な構図だ。この沼は、見るからに底なし沼的な感じだ。中央に見えるのが浮島なのか。