歌川広重


広重は定火消しの子として生まれた、れっきとした武士の家系であったそうだ。早くして両親を失い、幼くして家督を継いだそうだが、なぜ浮世絵師になったのかは不明。
広重は、はじめ歌川豊国に入門しようとしたが、門弟が多く断られ、歌川豊広に入門したのだそうだ。豊広は風景画を書いていたので、その影響を受け広重も次第に風景画を書くようになったらしい。

天保四年には保永堂より出版された「東海道五十三次之内」シリーズを描き、一躍人気絵師となる。東海道の宿場町周辺の風景に、風俗や自然現象を現し、叙情性に富んだ世界を描出した。当時の旅ブームにも乗って超売れ筋商品になった。その後、東海道シリーズは20作を超えるほど描いたらしいが、広重はそればかりか花鳥画にも優れ、多くの美しい作品を残している。
晩年は、「名所江戸百景」「富士三十六景」を手がけたが、当時江戸で流行ったコレラが原因で亡くなったそうだ。享年62歳。

三代豊国が描いた広重死絵の左に書かれているのは広重辞世の句で、
「東路へ筆をのこして 旅のそら 西のみ国の 名ところを見舞(みん)」
西方浄土へ旅立っても、名所を訪れようとする広重の心境を表しているのだそうだ。

                




                                      広重画暦

1797年 寛政九年  定火消同心 安藤源右衛門の長男として生まれる
1809年 文化六年   同心職を継ぎ、重右衛門と改名
1811年 文化八年   歌川豊広に入門
1812年 文政元年   豊広より広重の雅号を与えられる
1831年 天保二年  「東都名所(通称一幽斎がき)」
1833年 天保四年  「東海道五拾三次之内(保永堂版)」 「魚づくし」
1835年 天保六年   「木曾海道六十九次之内」 泉谷寺(横浜市港北区小机町)の杉戸に山桜図
1841年 天保十二年  「魚づくし」
1842年 天保十三年  「東海道五拾三次(狂歌入り東海道)」 「東海道五十三次之内(行書東海道)」
1849年 嘉永二年  「東海道(隷書東海道)」
1850年 嘉永三年  「絵本江戸土産」
1851年 嘉永四年   天童藩肉筆画
1852年 嘉永五年  「不二三十六景」 「浄瑠璃町繁花の図」 「箱根七湯図会」
1853年 嘉永六年  「六十余州名所図会」
1854年 安政元年   「双筆五十三次」
1855年 安政二年  「五十三次名所図会」
1856年 安政三年   「名所江戸百景」
1857年 安政四年  「諸国六玉川」
1858年 安政五年  「富士三十六景」
   

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