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広重は定火消しの子として生まれた、れっきとした武士の家系であったそうだ。早くして両親を失い、幼くして家督を継いだそうだが、なぜ浮世絵師になったのかは不明。
広重は、はじめ歌川豊国に入門しようとしたが、門弟が多く断られ、歌川豊広に入門したのだそうだ。豊広は風景画を書いていたので、その影響を受け広重も次第に風景画を書くようになったらしい。
天保四年には保永堂より出版された「東海道五十三次之内」シリーズを描き、一躍人気絵師となる。東海道の宿場町周辺の風景に、風俗や自然現象を現し、叙情性に富んだ世界を描出した。当時の旅ブームにも乗って超売れ筋商品になった。その後、東海道シリーズは20作を超えるほど描いたらしいが、広重はそればかりか花鳥画にも優れ、多くの美しい作品を残している。
晩年は、「名所江戸百景」「富士三十六景」を手がけたが、当時江戸で流行ったコレラが原因で亡くなったそうだ。享年62歳。
三代豊国が描いた広重死絵の左に書かれているのは広重辞世の句で、
「東路へ筆をのこして 旅のそら 西のみ国の 名ところを見舞(みん)」
西方浄土へ旅立っても、名所を訪れようとする広重の心境を表しているのだそうだ。
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